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冬のふるさと能登に帰る

今日(12.9)から20日まで、11泊12日で中能登町に帰る。
さまざまな人たちと、[OUEN信念会](令和7年1月25日(土))の打ち合わせを行う予定だ。そのほか、鵜祭りに関する行事やその他の祭りにも参加する(能登はほんとうに祭りが多い地方だと思う)。
また、来年4月から始まる新年度にOUEN Japanは何を成すべきなのか、その具体的活動についての打ち合わせもじっくりと行いたいと考えている。

先週末から、北陸は寒波の第1弾が到来しているとか。
冬の能登での生活は半世紀ぶりだ。半世紀前と違うところは、宿泊先は自宅ではなく古民家で、それもその古民家は町の中心からかなり離れている在所にあるというところだ。
"冬の能登時雨"という風吹の時、家並みがない吹き曝しの田圃の中を1時間も歩くことは、私は初めての経験であり、そのための準備はしているが、多少の不安がないわけではない。夜の最中は冷えるだろう。防寒対策を万全にしなければならない。また、国道を走る車対策として、私が目立つためのグッズを身につけることも不可欠だろう。

昨日、伊東(川奈)からの帰りの新幹線の車中で、私の位置情報が黄さんのスマホで分かるようにアプリをセットしてくれた。
黄さんは15日から中能登に来る。9日〜14日は能登で私一人であり、私が風吹の中で倒れてしまう心配がある。時々、私がどこにいるのかチェックしないと気が気ではないのだと。そんな思いで、スマホに位置情報が分かるアプリを入れてくれた。

黄さんは、私より23歳歳下の中国大連出身(生まれはハルビン)の女性だ。彼女は、子どもは3人の息子ばかりで娘がいない私にとってはとても大切で素敵な人だ。
私たちは、3月から10月まで、月に2泊3日の頻度で中能登町に行っていたが、11月からは私は月のうち2週間を目途に中能登町に帰っている。そのうちの後半は黄さんは中能登町に来るのだが、前半は私一人で活動することになる。
彼女が言うところには、「きっと冬の能登は、"ウォーキングを愉しむ"という気楽なものではないだろう」と。
私が泊まる町のはずれの古民家の周りには、寿司屋やお好み焼きの店はあるが、スーパーのような日常品を買う店はない。飲んだくれて夜道に倒れていることはないだろうか、毎日の朝食は大丈夫だろうか、と何だかんだ、娘のように心配してくれる。いや、実の愛娘でもこんな心配はしてくれないだろう。

元日の能登半島地震で、"能登の復興・創生の応援"が私の第二生のミッションになった。
それを果たすためには、想い(念い)はあっても想いだけではきっと何もできないと、素直になるとそう思う。私一人の力は非力だ。私一人では何もできないのだ。
だから、たくさんの人たちのお力をお借りしなければならないのだが、そのためにも黄さんという"かけがえのないパートナー"が存在することが絶対不可欠なのだ。
よくぞ、私が古稀になった時に私の前に現れてきてくれたと思う。そして、彼女がいて、漸く、私は実りの白秋を満喫して生きることができる。

そして、きっと、古稀での生まれ変わりが私の最後の生まれ変わりになるだろう。30年経つと私は100歳を超える。能登が復興から創生、過疎地のモデル地域になるのは、これから30年はかかるかもしれない。もうこれが私の最後の生まれ変わりになる。
そんな時、もう失敗は許されない後がない時に、私の前に黄さんが現れてくれたのだ。
これは奇跡であると思うが、天が私に与えてくれた天恵、必然なのだろう。私の念いを果たすために、彼女は私の前に現れてくれたのだ。
因果応報、善因善果、情けは人のためならずと、ありがたいことだと考えよう。

人間は一生のうち逢うべき人に必ず会える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎないときに。しかし、うちに求める心なくば、眼前にその人ありといえども、縁は生じず。
      森信三(教育学者)


私は、そのお礼に彼女に何をしてあげることができるだろうか。
私が培ってきた人脈をそっくりそのままプレゼントしようか。それに彼女のビジネスセンスが加わって、私の人脈は一層拡がっていくだろう。そして、それは全て彼女の人脈になるだろう。

今日能登に持参する濃紺のキャリーバッグも朱色のリュックも黄さんからのプレゼントだ。これに2週間の生活の衣類や寝具も入れて、北陸新幹線と七尾線に乗って能登へ向かう。パソコンも忘れないで持っていこう。

まだ、ふるさとに帰る愉しみよりも能登で戦う戦闘モードの心持ちの方が大きい。
早く能登に慣れて、ふるさとで戦うのではなく、ふるさとに休みに帰るモードになりたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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