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『至誠』について思う

「至誠而不動者未之有也」
(至誠にして動かざる者は、未だ之有らざるなり)
出典:『孟子』離婁上
解釈:こちらがこの上もない誠の心を尽くしても、感動しなかったという人には、いまだあったためしがない。誠を尽くせば、人は必ず心動かされるということ。

吉田松陰が愛した孟子の言葉だ。
私は大学時代、吉田松陰に憧れた。
人の心を打つためには、まず自らが誠を尽くすこと。その誠が相手の心を打ち、人間関係はスムーズに行く。
「絶対積極」の精神とは、この人だと思ったら、まずは、その人のために自分から行動することだ。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留置かまし大和魂」
松陰が獄中で認めた遺書「留魂録」の冒頭の句である。

吉田松陰は、長州(山口)の幕末の教育者、陽明学者、思想家だ。

松陰が影響を受けた陽明学は、「思想は行動が伴ってこそ、完成する。言行一致でなければならない」と言う「知行合一」の実践重視主義の思想だ。

その信奉者に、高杉晋作、西郷隆盛、河合継之助、大塩平八郎、三島由紀夫等がいる。

時には過激思想になることもあるが、「口から出たことは必ず実行する有言実行」の人生を全うする主義であり、それだけ自分に厳しい思想である。

会社オーナー、経営幹部、管理職、その他社員の全てが、そのような「有言実行の人たち」であれば、その会社は素晴らしい成長を遂げることは間違いない。

そして、日本人なら、「大和魂」だ。これからは、拘りのない、柔らかい、世界に開いた「大和魂」でなければならない。
そして、その「大和魂」は、この世から旅立つ時は、しっかりとこの世に留め置いて、後に続く者に伝えていくことが望まれる。

『至誠』について

臨済宗円覚寺派大本山の円覚寺のホームページには、『至誠』について下記のように書いてある。

「至誠」とは、この上なく誠実なこと、まごころを表します。

中国の古典『孟子』には、
「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」
という言葉があります。

「天地万物にあまねく貫いているのが誠であり、天の道である。
この誠に背かないようにつとめるのが人の道である。
まごころをもって対すれば、どんな人でも感動させないということはない」
という意味です。

まごころをもって接すれば、どんな人でも動かせる力があるということを表し、この「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」の一言は、幕末の志士吉田松陰が大事にしたと言われます。

ただし、その至誠、まごころは一時だけのものに終わってはなりません。
これも中国の古典『中庸』には、
「至誠無息(至誠息(や)むこと無し)」
とあります。
この上ない誠実さ、まごころを持って生涯を貫くことです。

『中庸』には、「至誠息むこと無し」の後に「息まざれば久し。久しければ徴(しるし)あり」と続きます。

「この上ない誠実さ、まごころを怠ることなく、あきらめずに保てば長く務めることが出来る。
長く務めれば必ず目に見えるしるしが顕れる」
という意味になります。

吉田松陰が大事にしたということからも、この至誠なるものは大きな力を持っていることが分かります。
あの徳川幕府を終わらせて、明治という新しい近代国家を造り上げた原動力でもあります。

私もこの言葉に感動し、大事にしてきました。
しかしながら、二十代や三十代の頃と違って、この頃は少々違和感を覚えるようになりました。
どんなに至誠でもって頑張っても無理なこともあります。また無理を至誠で押し通そうとするのも、膨大な力が必要です。

吉田松陰などは、その無理とも思われたことを成し遂げる原動力になったので、多くの人から慕われるのでしょうが、この頃は私にとっては、それは無理をしているように段々と思われるようになってきたのです。確かに明治維新はすばらしいのですが、勇み足だったところもあり、そのために失ってしまったものもありましょう。

今北洪川老師が『禅海一瀾』の中で、この「至誠息むこと無し」の一語を取り上げておられます。

その中では、「至誠」のはたらきをこのように表現しているのです。

「譬えば、以て鳥は春に鳴き、以て雷は夏に鳴り、以て虫は秋に鳴き、
以て風は冬に鳴るが如し。其れ唯だ毫釐も欺かず。而も循環、息むこと無し」と。

訳しますと、
「たとえば、天地の至誠とは、鳥は春に鳴き、雷は夏に鳴り、虫は秋に鳴き、風は冬に鳴るようなものである。それはいささかも(私意を以て)欺くことがなく、循環して止むことがない」
となります。

自分の力で無理にでも成し遂げようという「至誠」ではなくて、大自然のはたらきそのものが「至誠」であると言われるのであります。

禅の修行とは、実はこの大自然のはたらきとひとつになってゆくことであります。

道元禅師は、
「本来面目」という題で、「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて、涼しかりけり」
と詠いました。

大自然の営みそのものが本来の自己だというのであります。 

「春苦み、夏は酢の物、秋辛み、冬は油と、心してくえ」という言葉もあります。

大自然の運行と順応してゆくことを説いています。
大自然と一体になると言いましたが、それはむしろ逆であって、もっといえば、もともと一体であったのです。
そしてそれに気づくことであります。
私の体は、もともと「大自然と一つ」になって働いているのであります。

呼吸ひとつにしても、意識的に行う呼吸よりも、無意識に行われている呼吸によって、われわれの体の二酸化炭素の調節が見事に行われているという研究があります。
私たちの体もまた大自然のはたらきにほかならないのです。

こうして「至誠」というのは、私達を生かしてくれている「大きな大自然の営み」だと分かります。

その大いなるはたらきに身をまかせて、無理をせずにいく方が長続きします。
その方が本当に「至誠息むことなし」だとこの頃になって思うのであります。

(平成30年11月24日 禅をならう会『禅海一瀾』提唱より)

私は東大応援部のおり、吉田松陰に憧れ、『至誠』の想いを下級生たちに強要したことがあった。
それで、下級生の中で、団長派と反団長派ができて、そのような悩みを、応援部の大先輩である井口一弘さんにご相談したことが間々あった。

何事もいくら正しいと思っても、それぞれの価値観があり、無理強いすると成るものも成らなくなってしまう。
円覚寺のホームページの『至誠について』を読んで、半世紀前の自らの至らなさがまざまざと思い起こされた。

それから半世紀が経った。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とドイツ宰相のビスマルクは喝破しているが、その通りだ。

愚者の私は、これまで生きてきた半世紀の「成功と失敗」に学び、成長してきた実感がある。
どちらかと言えば、後者の「失敗」から多くを学んできたようだ。

これからは、今までの経験が歴史になることでもあり、「人生は、いつ終わるか分からない」真実を静かに見つめつつ、私が経験してきた経験も私の歴史として本来の歴史に加え、全ての歴史の中から多くのことを学んでいこうと思う。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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