ご縁は、人生という川の深いところでつながっている
9月初旬に中国東北部(旅順・大連・哈爾濱)を訪ねる。
19世紀以降の日本では、中国東北部のことを"満州(まんしゅう)"という呼び名で呼んでいた。
祖父は日露戦争に出征し、遼東半島の付け根の旅順や大連でロシアと戦ったが、日本はロシアに勝利して、満州における鉄道・鉱山開発をはじめとする権益のうち、南満州に属するものは、ロシアから日本に引き渡された。
私たちは、その後の中国東北部における"満州事変"や日本の傀儡政権であった"満洲国"の歴史を、中学校や高校の社会科の授業で学んでいる。
また、私は半世紀前まで中能登町に住んでいたが、実家の近くに、戦前満州に住んでいた家族があった。
近所の人たちは、その家族のことを屋号で"満州"と呼んでいた。
私は小学校に入る前から、"まんしゅう"という単語に馴染みがあった。
時代を奈良・平安時代に遡ってみると、満州と呼ばれていた地方には"渤海(ぼっかい)"という国があって、その渤海と私のふるさと能登は、富来福浦港が窓口になって、海路によって交易が盛んだったそうな。
✴︎富来福浦港は、中能登町に隣接している志賀町の港である。
https://www.ishikawa-c.ed.jp/content/m-media/rekishi/rekishiSOZAI/fukuura/fukuura.html
【富来福浦港】
[渤海との交流があった 福浦港]
奈良時代から平安時代にかけて,中国東北部に渤海という国がありました。渤海は,34回(北陸地方に21回、内能登地方に3回,加賀地方に4回)も日本に使節を送っています。渤海使は,日本で毛皮やハチミツ,仏典,工芸品などを,絹織物,黄金,漆,水銀などと交換していきました。渤海との交流によって,いろいろなものや情報が大陸から日本に伝えられました。
[天然の良港 福浦港]
福浦港(福良津)は,天然の良港で、水澗(みずのま)と大澗(おおのま)と呼ばれる入り江からなっています。
陸地に入り込んだ入り江は風をさけるにはとてもいい場所でした。
[渤海の船の修理がおこなわれた 福浦港]
福浦港(福良津=ふくらつ)では,帰国のための出航準備が行われたり,渤海使が宿泊したりしました。
平安時代の初めごろ,船の修理に使う森林を伐採してはならないという朝廷の命令が出されており,能登の国の造船地としての姿が浮かんできます。
[渤海使が宿泊した 能登客院]
平安時代の初めごろ,渤海使を宿泊させるために能登国に宿舎(客院)をつくれという朝廷の命令が出されました。その宿舎が,福浦の地(現在の「フルドウ」,「トガドウ」など)につくられたという説があります。
[船の無事を祈る 回船絵馬]
福浦港は,北前船の能登外浦の寄港地の一つでした。北前船の航海にはたいへん危険が伴いました。金比羅神社には,無事を祈る船主や船員の家族らの祈りを込めた回船絵馬が奉納されています。
"縁は異なもの、味なもの"ということわざがある。
その意味するところは、
「男女の縁というものは、どこでどう結ばれるのか、まことに不思議なものである。縁はさまざまの人を結びつけ、また離し去って倦むことを知らない」
ということだ。
縁の不可思議さは男女の縁に限るものではない。歴史にもビジネスにも、男女の縁に勝るとも劣らない"異なもの、味なもの"がある。
[能登と中国東北部とのループ]
能登→渤海→満州→中国東北部→旅順・大連・哈爾濱→日露戦争→祖父→能登
回り回って、能登は中国東北部と一つのループでつながっているのだ。
私は考えてもみなかったが、"能登と中国東北部とは、深いご縁がある"ということではないか。
まさに、歴史を学ぶことは、すなわち、人間を学ぶことでもある。自分を発見することでもある。
能登半島地震は、私にふるさと能登への想いを思い起こしてくれた。それで私は、[OUEN Japan]のミッションの主柱として、"能登の創再生の応援"を掲げたのだ。
副団長の黄さんは、日本が大好きで、日本にお世話になっている恩返しとして何か"社会貢献"をしたいとの思いがあって、"能登の創再生の応援"をする私の右腕になろうと思ってくれている。
その黄さんは、中国東北部の哈爾濱の生まれで、大連で日本ビジネスに関わり、日本に来て10年になる。
黄さんにとって、"社会貢献としての能登の創再生の応援"なのだが、それは、"歴史から考えても、ご縁がある"と思うのは私のこじつけだろうか。
柳生家の家訓を思い起こす。
[柳生家の家訓]
小才は、縁に会って縁に気づかず
中才は、縁に気づいて縁を生かさず
大才は、袖振り合う縁をも生かす
人間が生きていく人生という川の深いところには、滔々と"ご縁という水"が流れている。
人に、そのご縁の水を掘り当てる感性と努力と情熱があれば、そのご縁の水は自然と湧き上がってきて、光り輝き、"幸せ"という大きな実を結んでくれる。
人は、大才になろうと思い、袖振り合う縁をも生かすことをし続けることで、いつの間にか、"幸せ"がその人に近づいてくるものだ。
いや、その考動そのものが"幸せ"なのではないだろうか。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)
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