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成らぬ堪忍、するが堪忍

昨夜、黄英蘭さん(イノベーションソフト社長)がふるさとハルビンからメールをくれた。
彼女は先月から今月19日まで約1ヶ月に亙り、中国東北地方の大連に帰っている。今は、彼女の生誕の地のハルビンだそうな。
ハルビンは、中国東北地方の内陸(日本の内陸とはそのスケールは大違いだ)、緯度は北海道より高い。樺太と同じくらいだ。今は、夜はマイナス31度、昼でもマイナス20度だとか(私は40代前半に北海道に勤務していたことがある。真冬のオホーツク海沿岸を、稚内から紋別までタクシーで走ってもらった。タクシーの中も寒くて、運転士さんに温度を聞いたらマイナス10度だとか。「もっと暖房を強くしてください」と言ったところ、「お客さん、これが精一杯なんですよ。真冬のオホーツクはこれが当たり前です。我慢してください」と返された。それは私にとって寒いというレベルではなかったが、ハルビンはその比ではない)。

黄さんのメールには、「寒くて寒くて、私がこんな悪天候の環境で生まれ育ったと想像もできないぐらいです。よくも生きて来たし、生きているのが不思議ぐらいです」と書いている(彼女は気候のことで、こんな弱音を吐いているが、人生を生きることに関しては決して弱音を吐くことはない)
シベリアやアラスカはハルビンどころじゃないんだろう。上には上がある。

"苦を磨き砂にする"と思って生きることだ。いや、"苦を苦と思わず、当たり前のこと"として、淡々と生きることだろう。"何事も考えよう"だ。

私の人生を振り返ると、44歳が大きな人生の境になったと思う。
それまでは幼少の頃から大学まで、社会人になっても順風満帆の人生だったと思う。それは今から考えると、皆さんに可愛がられて生きた甘ちゃん人生だったのだ。
"若気の至り"、"匹夫の勇"というのだろうか、啖呵を切って、後先も考えずに銀行を辞めた。
それから、私の甘ちゃんの"波瀾万丈"、"七転八倒"、"紆余曲折"の後半人生が始まる。

今でこそ、"苦は磨き砂"、"苦は楽の種"と、淡々と思えるようになったのだが、還暦までの15年間はそんな余裕はまるでなかった。何でこんな不幸な人生になったのかと、そうは思っても、"後悔先に立たず"だ。黄さんではないが、寒くて寒くて、仕方がなかった。

それが薄皮が剥がれるように、後悔の心が反省の心に変わってきたから"荒天人生"が'好天人生"に変わってきた。黄さんという素晴らしい人にも巡り会えた。"苦は磨き砂"と思う心が自然と湧き上がってきたからだろう。

また、"疾風に勁草を知る"故事成語ではないが、疾風怒涛の人生を真っ直ぐ、素直に歩いていると、心清き、心強き、勁草(強い草)の人しか近づいてこなくなる。勁草でない人は、私に近づいても何の利もないからと思って、だんだん遠ざかっていくのだ。私の周りに集まってくださる人は勁草の人で、遠ざかっていく人はそうでない人なのだ。それが明確に分かれてくる。やはり、"苦は楽の種"なのだ。真っ直ぐ、素直に生きていると、苦が私の周りに勁草の人を集めてくれる。苦は楽の種になるのだ。

昨日、西武信用金庫の長澤常務をお訪ねし、ビジネスの話や人生の話を語り合った。
世の中いろいろあるが、人生成功のポイントは"許す"ということではないかと、お互い、意見の一致を見た。

ガンジーは言っている。
「弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは、強さの証だ」

"成らぬ堪忍、するが堪忍"という故事成語がある。
成らぬ堪忍なら、成らぬでいい。成らぬ堪忍をするのは矛盾だ。
しかし、この故事成語の"成らぬ堪忍"は、本当は成る堪忍なのに、一時の感情、意気がり、若気の至り、勇み足で、成らぬ堪忍と思ってしまうことにある。本当は、"成る堪忍"なのだろう。成る堪忍はするのが当然だ。本当に成らぬ堪忍なら成らぬでいいのだ。
ちょっと時間を置いて、冷静に考えると、本当に成らぬ堪忍はそうないのではないか。

私が銀行を辞めた成らぬ堪忍と思った堪忍は、きっと成る堪忍だったのだ。しかし、それを成らぬ堪忍と思ったからだと、今になってそう思う。

しかし、私は、それを反省して、真っ直ぐ、素直に、人生を生きてきた(と自負している)から、多くの勁草の人が私の周りに集まってくれるのだ。ありがたいことだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

[成らぬ堪忍、するが堪忍]

どうしても我慢できないようなことを許すのを堪忍というのであって、普通に簡単に許せるようなときは堪忍とはいわないのです。自分が寛容であると考えている人は、許すということの心構えがほしいものです。
まず、我慢のできないこと、あるいは許すことのできないことという事例について、中国の有名な故事を紐解いてみましょう。
漢の統一における功労者であった大将軍韓信についての逸話です。
彼は、若いころ家が貧しくて食べるものにも事欠き、釣りをして空腹を凌いでいたことがありました。気の毒に思った老女が飯を恵んでくれたことさえありました。
あるとき、町の無頼の者が「お前は長剣を下げているが、出来るものなら、おれを斬ってみよ。できないならおれの股の下をくぐってみよ」と嘲ったのでした。韓信はしばらく相手をにらんでいましたが、やがて這いつくばって、その無頼の者の股の下をくぐったとのことです。「韓信の股くぐり」と和漢折衷の格言となっています。
公衆の面前で侮辱を受けて「市の人背信を笑いて怯となす」というような状態に忍の一字で耐えぬいたからこそ、将来の彼があったといえましょう。

現代の社会で生活をしていると、人の一生のあいだには、耐えられないような屈辱を味わうことがあると思います。
そのときに、どのように対処するかによって生涯に大きな影響を与えることになるのですから、出来るものなら耐えぬいて、その場を切り抜いて行きたいものです。
ビジネス社会で起こった場合の例を挙げてみましょう。
1)重要取引先の担当者が、些細なことに文句をつけて、他の業者の前で面罵した。
2)上司のなかに、好悪の極端な人物がいて、肉体上の欠点について宴席で笑いものにされた。
3)努力を重ねて業績を上げ、会社に貢献しているのが明らかなのに、評価されずにないがしろの処遇を受けた。
などが、代表的な例でしょう。

このような許しがたい屈辱を受けたとき、すぐに反抗的になって、言葉を荒らげて相手に噛みついたり、辞表を出したりするような短絡的な行動は慎むべきでしょう。
ものごとは許せることと許せないことがあるのも事実でしょうが、人間関係でおきたトラブルについては、一旦は忍の一字で引き下がり、後日に冷静な判断にもどったとき解決を求める方が、適切な行動がとれるものです。
また、韓信が耐えることができたのは、彼には他に大志があったからで、その希望をかなえるためには小事にかかわっていてはいけない、という自戒の念が強かったからだと思います。
人間的な修養を積んだ大人物であれば、多少のことで動揺し、取り乱すことはないでしょうが、一般的には、そのような境地に到達するのは難しいものです。

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