ふるさと能登を知ろう/能登はやさしや 土までも
私はあまり能登半島のことを知らない。元日に能登半島地震があり、3月から半年に亙り中能登町に通ってみて、私は能登を何も知らないことがよく分かった。
能登は、口能登と中能登と奥能登
能登地方は、加賀との境の"口能登"(羽咋市、宝達志水町、志賀町)と、能登半島の中央部の"中能登"(七尾市、中能登町)と、能登半島の先端の"奥能登"(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)の9市町、3つの地域に分類される。私が生まれ育ったのは、中能登の"中能登町(旧鹿西町)"だ。
能登半島は、氷見市(富山県)が加わる
また能登半島は、能登地方(石川県)に加え、付け根(南部)の氷見市(富山県)が加わる。氷見市は、中能登町から石動山を越えて車で20分もかからない。富山県であるが、中能登町とは親しい自治体である。
氷見市には祖母の実家があって、私の幼少の頃は、春秋の祭の時に祖母に連れられて、徒歩で山を越えて、よく氷見市小久米の祖母の実家を訪れたものだ。
国勢調査の能登半島地域
国勢調査では、能登半島地域として、石川県河北郡以北の12市町と富山県氷見市の13市町が半島振興法に基づく半島振興対策実施地域に指定されているが、南部のかほく市と津幡町と内灘町の3市町は旧加賀藩であり、実際のところ能登ではない。
衆議院選挙の石川3区はこの国勢調査の能登半島地域に当たるが、これはあくまでも選挙のための人口調整であり、歴史・文化を踏まえたものではない。
私が金沢大学附属高校に入学した時、「能登出身の同期は誰か」を意識した。その時の能登には、かほく市や津幡町や内灘町の同期は入っていなかった。
実感としての能登
歴史的、文化的の意味での能登地方は、実感としても"能登は、旧能登国である口能登と中能登と奥能登の9市町"なのだ。
加賀(含む金沢)・能登の全石川県民の意識もきっとそうだろうと思う。
能登半島の地方創再生に取り掛かる順序
これから、OUEN Japanとして"能登の創再生の応援"を本格化していくのだが、その起点は私が生まれたふるさと中能登町になる。
まず初めに、中能登町の創再生だ。それを意味あるものにするためには、邑知潟地溝帯(平野)を構成している七尾市と中能登町と羽咋市の"基礎自治体の枠を超えた広域の地方創再生"が必須ではないかと思う。
そして、それに加え、中能登町と隣接している氷見市と志賀町に拡げていくことだ。中能登町の周囲を固めた上で、その次に奥能登地域へと足を伸ばす。
すなわち、
中能登町→邑知地溝帯を構成する自治体(七尾市、羽咋市)→その他、中能登町に隣接する市町(氷見市、志賀町)→奥能登地域(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)
の順序である。
まずは、私が知らない能登の歴史・文化を知り、学ぶことで、一層能登への郷土愛を深めることだ。想いを高めることだ。汝自身を知ることから幸せへの道が開けてくる。
能登はやさしや 土までも
皆さん、こんなことばを知っていますか。
”能登はやさしや 土までも”
このことばのとおり、全く知らない土地で、新人として仕事を始めた私を、能登の人たちは優しく受け入れてくれました。
そんな人たちを襲った能登半島地震。長引く避難生活や、見通せない復旧・復興への道に、私は、思わず、立ちすくんでしまいそうになります。
でも私は、アナウンサーとして、発信を続けようと思います。
被災地の苦しみを、悩みを、そして希望を、できるだけ多くの人に伝えるために。
能登半島は、北陸地方の中央付近から日本海へ北に向けて突き出した半島。日本における日本海側海岸線で最も突出面積が大きい半島でもある。近世以前は多くが能登国であったため、こう呼ばれる。
地形的には北から能登山地、能登丘陵、邑知潟低地帯、石動・宝達山地が位置している。半島付け根部にあたる石動・宝達山地には石動山などの主稜線があり、富山湾側と邑知平野側の分水界であるとともに、付近には石川・富山県境がある(半島は大半が石川県に属するが、一部は富山県(氷見市)に属する)。
半島東側の富山湾に面した海岸を内浦、半島西側の日本海に面した海岸を外浦と呼ぶ。また、富山湾を挟んだ半島の対岸に富山平野が存在する。
能登半島の沿岸部は海成段丘が多くみられ、沿岸平野は中部の邑知潟低地帯付近を除いて小規模である。
輪島市などでは千枚田が見られ、中でも白米千枚田は有名である。海岸線を主体に広い範囲が能登半島国定公園に指定されている。
なお、能登半島から約23km北方に七ツ島、約48km北方に舳倉島が位置している。
半島北部北側の能登山地は多くは海抜300 - 400メートルの山々で、最高峰は高洲山(標高567メートル)である。その南側の能登丘陵は能登山地とともに半島主要部を構成しており、地域区分では奥能登丘陵と中能登丘陵、さらにその東側の湾内(七尾湾)にある能登島に分けられる。
半島中部の邑知潟低地帯は七尾市から羽咋市にかけて北東から南西方向に延びる低地帯である。
石動・宝達山地は邑知潟低地帯の南側の半島の付け根にあり、最高峰は宝達山(標高637メートル)である。
「能登」の名は万葉集の大伴家持の歌などにもみられ、一説にはアイヌ語で岬を意味する「not」から来たという。他に湾(ここでは七尾湾)を意味する飲み門(のみと)が由来との説もある。
能登半島の歴史は約6000年前にまで遡る。
能登町にある真脇遺跡は約4000年間にわたる縄文時代の長期定住型遺跡として知られる。また、七尾市にある縄文時代の遺跡である佐波遺跡からは、西日本各地で出土するものとよく似た出土品が発見されており、縄文時代から西日本文化圏との交流があったとみられている。
718年に氷見地区を除く地域が越前国から能登国として分離した。その後、能登国は越中国に併合されたが、757年に再び能登国として分立した(ただし氷見地区は越中国に含まれていた)。
1986年(昭和61年)3月31日に「能登半島地域」として、石川県河北郡以北の12市町と富山県氷見市の13市町が半島振興法に基づく半島振興対策実施地域に指定された。
国勢調査では能登北部地域(輪島市、珠洲市、能登町、穴水町)、能登中部地域(七尾市、羽咋市、志賀町、宝達志水町、中能登町)、能登南部地域(かほく市、津幡町、内灘町)に区分している。
なお、かほく市と河北郡の大部分は旧能登国ではなく旧加賀国である。
一方、かほく市及び河北郡を含めず、能登地域のうち石川県内の地域を能登北部(奥能登)と能登南部(中能登及び口能登)に分ける場合もある。
能登を歌った歌謡曲(演歌、艶歌)に石川さゆりの"能登半島"と坂本冬美の"能登はいらんかいね"がある。
いずれも、日本を代表する演歌歌手が歌う名曲である。
この歌を聴くと、いつも15歳まで暮らした"ふるさと能登"に思いを致す。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)
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