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応援とは、

『応援』の意味を考察する。

【応援】
1 力を貸して助けること。また、その助け。「選挙運動の応援に駆けつける」「応援演説」
2 競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。「地元チームを応援する」「応援団」

応援団は、一般的には俗に言う「男気に溢れる」慣習やしきたり、厳しい上下関係を持った集団のイメージがある。
私が現役の頃「花の応援団」という漫画があった。この漫画は、応援団をデフォルメして、むくつけき男臭い、非常識がプンプンしている応援団のイメージを多くの人たちに植え付けた。
私から言わせれば決して「応援」の本質を追求したものではない。そして、全くスマートではない。人々にエセ右翼的な印象を植え付けるものだったと、私は感じている。

今は、東大応援部でも7割以上が女性で占められている。
応援団はリーダー・ブラスバンド・チアリーダーの3パートで構成されている。
チアリーダーは全て女性、ブラスバンドは男女半々だ。リーダーは男性の世界と思いきや、今は女性が応援団長をする時代になった(東大応援部は、昨年の主将は女性だったし、今年もリーダー部の女性にフォーカスしたドキュメンタリーがTBS系で放映されている)。
今の応援団は男女共同・協働社会の先頭を走っている華やかな団体になった。私は「日本社会は応援団の組織を見習って大きく変革すべき」ではないかと思っている。

では『応援』の本質とは何か。
「応援」は、「援けに応える」と書く。人が誰かに援けてほしいと思う時、その思いに応えることが「応援」だ。

私は東大応援部現役の時、はたして負け続ける東大野球部を私たち応援部の「応援」で勝たせることができるのか、「応援」の意味をよく仲間たちと飲みながら議論したものだった。
勿論、野球をするのは選手であるから彼らが技を磨いて勝つことであり、その点では応援部は何のお手伝いをすることはできない。
大差の負け試合でも、いつも「勝つぞ、勝つぞ、東大‼︎」と大声を張り上げて応援する。そこにどんな意味があるのだろう。そんなことをしても野球は勝てない。そんなことが心の奥底にある。
しかし、選手はグランドで私たちの応援の声が聞こえている、その声援に励まされて、「今度こそ勝とう」と思ってプレイしているのだと。
そして、勝った時、彼らは「皆さんの応援のおかげだ。ありがとう」と言ってくれる。決してリップサービスではない。心からそう思っている言い振りなのだ。

応援している私が逆に選手たちから応援されている。
応援はキャッチボールのようなものだ。
相手が受け取りやすい好球を投げれば、同じように、こちらが受け取りやすい好球が投げ返される。合わせ鏡のようなものだ。応援することは応援されることなのだ。

人間はもともと利他的な動物ではないのか。
人間はみんな幸せになりたいと思っていきている。不幸せになりたいなどと誰も思っていない。
では、何が幸せか。私は、私がしたことで、相手が喜んでくれて「ありがとう」と言ってくれることにこの上ない幸せを感じる。それは利他であり、利己だ。
「そうか、利他と利己はぐるっと回って合流するのだ。人間の人生は丸い輪っかのようなもので、人生を突き詰めて考えて行動していると、利己と利他は合流して、人間みんなを幸せにするのだ」
と思うようになった。

すなわち、応援とは「利己と利他をつなぎ合わせる蝶番のようなもの」なのだ。
私の第二生は、その応援団長を極めよう。

そして、私が応援団長を生涯続けることができるのは、私を47年に亙り無私の心で応援してくれている妻という存在があったればこそと思う。
こんな好き放題ができるのは、私を応援し続けてくれる妻がいるからだと思う。彼女は一番前の応援席で私を応援してくれている。それに私はまだ何も応援をお返ししていない。応援は合わせ鏡。応援のお返しがないと丸い輪っかは回らない。おかげさまで3人の息子たちは妻を大切にしてくれている。私の足らずをカヴァーしてくれている。
そんな環境が、一層私を応援してくれるのだ。

争いがない世界や諍いがない家庭があって、人間は人のため世のために尽くすことができる。

幸せな人生のために、穏やかな、温かい心で、人のため世のために尽くす、そんな「応援人生」を送りたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)


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