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11月の「旅順・203高地」への旅を思う

2008年(平成20年)6月に上海に出張して以来、私は全く海外に出掛けていない。
私の「人と人をつなぐビジネス」では「海外」はほとんど関係なかったし、観光のみの旅については、国内外とも、「仕事のついでに観光する」程度の無関心だ。

人は、「小林は、何を楽しみにして生きているのか」と思われるだろう。
しかし、年中無休が苦でないのだから、心が貧しいわけではない。

私の楽しみは、「人と人をつなぐビジネス&ボランティア」をして、人が喜んでくれることなのだ。
だから、毎日が仕事&ボランティアであり、それは、イコール遊びなのだ。

毎日が遊びなのだから、それ以上、全く遊びたいとは思わない。何も我慢をしているわけではない。

すなわち、海援隊の「母に捧げるバラード」の「母ちゃんの台詞」が私の生き方そのものなのだ。

「働け、働け、働け、鉄矢。
働いて、働いて、働きぬいて、休みたいとか、遊びたいとか、そんなこと、おまえ、いっぺんでも思うてみろ。
そん時は、そん時は、死ね。それが人間ぞ。それが男ぞ」

私は、2008年(平成20年)5月に個人会社を設立したから、上海への旅はそれから1ヶ月後だ。
ビジネスを兼ねての出張だったのだろうか。誰と行ったかくらいは覚えているが、何のために行ったかは、全く覚えていない。

そんな、海外に出掛けることのなかった私であるが、11月1日(水)〜5日(日)、4泊5日の中国・旅順の旅に行くことにした。

11月1日(水)
10:10成田→12:30(現地時間)大連NH903(ANA)

11月5日(日)
13:25(現地時間)大連→17:20成田
NH904(ANA)

これはビジネスではない旅だ。観光と言ったら観光になるかもしれないが、旅順への旅の目的は、「私のルーツを目に焼き付けたい。心身に沁み込ませたい」との思いからの旅なのだ。

勿論、私が自ら計画しての旅ではない。馬形さんが中国ビジネスに関わっていた時に大連や旅順に何回か行くことがあって、また、日露戦争の203高地の戦いの詳細を調べて、よくご存知だったことで、彼がこの旅の「水先案内人」を引き受けてくれることになったからだ。
現地での旅程も、全て馬形さんがセッティングしてくれる。

馬形さんとは、私が大学4年生の時に出会った。
私は東大本郷の近くの西片に下宿していた。馬形さんは早稲田大学1年生で、その近くにあった「鶴山館」という岡山県津山市界隈に生まれた学生たちが住む学生寮に住んでいた。
お互いの近くにあった居酒屋の「養老乃瀧」で何人かの鶴山館生と親しくなり、付き合いをしていたのだが、彼らたちとの飲み会に馬形さんも来ていたのだろう。
私は4年で馬形さんは1年。3年の学年差があれば、応援団であれば、「天皇と乞食」のようなものだ。その時の彼を、私は彼を全く覚えていない。
そんな関係だったのだが、彼が私の東大応援部の後輩の伝手を頼って、渋谷支店にいた私を訪ねてきたのだ。そして、「安田信託銀行に入りたい」と。
その時、「あぁ、鶴山館に馬形がいたのか」と思ったのだ。逆に、彼は、よっぽど私が印象深かったのだろうか。

昭和52年の就活は、石油ショックの影響で就職難の時だった。私は彼を人事部に紹介してた。その効果が少しはあったかもしれない。めでたく彼は安田信託銀行に入社してきた。それから、私との半世紀近くの付き合いが始まったのだ。

彼は、全早連(全国早稲田学生連合会?)のトップをしていた。「人生劇場」の青成瓢吉のような男だ。早稲田大学第2校歌は「人生劇場」だが、その番外がある。

端役者の 俺ではあるが 
早稲田に学んで 波風受けて
行くぞ男の この花道を 
人生劇場 いざ序幕

私も馬形さんも、既に人生劇場の後半戦だ。まだまだ、終幕までには時間はあるが、そんなにたっぷりあるわけではない。だからこそ、無駄のない後半生を送りたいものだ。

なぜ、この旅順の旅が「私のルーツ」なのか。

それは、私の祖父である小林米次郎が、日露戦争の旅順での戦いにおいて、二等兵として、金沢の第九師団の第七連隊に所属して、出征していたからだ。
祖父は、露軍に奪われた第七連隊旗を奪取したことをはじめとして、それなりの功績があったのだろう。金鵄勲章を受章する栄に浴した。

祖父は、私が幼少の頃、よく私に日露戦争のことを話して聞かせてくれた。

飲まず食わずであったり。血の水を飲んで生きながらえたり。
「馬上の乃木将軍を拝んだ」ことも話してくれた。その「拝んだ」という表現に、私は「時の兵隊にとって、乃木将軍は特別な人だったのだな」「祖父は、乃木将軍の背後にいらした明治天皇を拝んでいたのだな」と子ども心に、私が育った昭和とは全く違う「明治国家」の神聖さを感じたものだ。

祖父は、実に穏やかな、心優しい人間だった。そして、気丈で、厳格な祖母を「おかっつあま(お母さま)」と呼んでいた。
私は祖父母に育てられたから、祖父母の夫婦喧嘩はいつも見ていた。いつも祖母が勝っていた。
逆に、食事の時は、祖父は一人お膳で、祖母と私は別の共同のお膳だった。
明治は昭和の時代以上に男尊女卑だったろうが、祖父母の関係はまさに「かかあ天下」だった。
しかし、祖母は祖父を尊敬していた。私に祖父のことを「おじいちゃん」と呼ぶようにと言っていたが、自らのことは「おばば」と呼ばせていた。
さだまさしの「関白宣言」もいいが、祖父は、決して関白宣言のような夫ではなかった。勇敢であるが優しかった。祖父は、チャンドラーの「強くなければ生きることができない。優しくなければ生きる資格がない」を地で行っている尊敬すべき男の中の男だったのだ。
私も、そんな祖父のような人間を目指したいと思う。

そんな祖父母に育てられたこともあって、今の時代の「ジェンダー平等」は、私には全く違和感がなく、ストンと腹落ちする。
それは、祖父の血がそうさせるのだろうと思っている。

その祖父が露軍と戦った旅順に行く。

黄さん(イノベーションソフト社長)は哈爾濱(ハルビン)出身で、大連にもいたことがある。
11月の旅順の気候は、それは東京とは桁違いに厳しいのだと。
「行くなら9月がいいと思う」とアドバイスをくれた。
それを馬形さんに言ったところ、馬形さんは、
「観光旅行じゃありません。博重さんのおじいさんが戦い、辿った行程を、博重さんも辿るのです。
おじいさんが行軍されたと同じコースを車で走ります。そして、おじいさんが軍旗を奪取されたのは、11月なんです。冬間近の旅順に行くことで、博重さんのルーツを強く体感できるんです。だから、9月ではなくて、11月なんです。
私がよく知った運転手や案内人を付けます。移動は車ですから、防寒着を一つ持っていけば、それで大丈夫です」
と言う。

パスポートは2015年で切れていた。赤坂支所で戸籍謄本とパスポート申請書類を貰った。顔写真はある。
本日、新宿パスポートセンターに出掛けて、パスポートを申請しようと思う。

人間として生きること。
穏やかな心で生きること。
誰にも負けない闘争心を持つこと。それでも、できるなら戦うことはしたくない、戦いは悪であることを自覚すること。
平和を愛すること。
女性を大切にすること。
男女は対等・平等であることが本来あるべき姿であること。
それぞれの特徴(得手)を補い合い、寄せ合って、これからの社会を「男女共同・協働社会」にしていくこと。

旅順への旅は、私が、「これからの理想社会を創るのだ」と心身に刻み込む、そんな旅になることだろう。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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