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邑知(潟)地溝帯と鵜様道中

3月から中能登町に毎月帰っている。
大学受験前に旧鳥屋町良川の伯父伯母の家に2ヶ月お世話になったのが、最後の中能登町の思い出だから、早いものでそれから53年が経つ。半世紀以上前のことだ。

「三つ子の魂百まで」と言うが、中学3年生(15歳)まで能登を離れたことがなく、どっぷりと能登に浸かっていた人間にとって、私の魂のど真ん中には"ふるさと能登"があるのだと今になってつくづく思う。そのことを、今回の能登半島地震は私に呼び覚ましてくれたのだ。

JR七尾線で金沢から良川に向かう。特急の"サンダーバード"や"能登かがり火"は、終点の七尾までの停車駅は羽咋だけだ。5月は各駅停車の旅だったので、止まる駅ごとに、その駅名が懐かしく、「ふるさとに来たな」と実感した。これからも七尾線各駅停車に乗車することが多くなるだろう。

羽咋の次は千路。中能登町に入って、金丸〜能登部(私の実家があった最寄駅)〜良川(中能登町役場の最寄駅)で下車する。
金沢から良川まで、普通列車で1時間強だ。

羽咋を出ると、七尾まで邑知(潟)地溝帯が広がっている。40km強の狭く細長い、平野とも言えないような細長い平野だ。昔は、邑知(潟)地溝帯の南西には邑知潟があった。昭和23年から20年間かけて埋め立てられた。私が中学3年生の時に埋め立ては完了したのか。
邑知(潟)地溝帯の北には眉丈山脈、南には石動山脈があり、その二つの低い山脈に挟まれて邑知(潟)地溝帯がある。その邑知(潟)地溝帯のど真ん中に、中能登町が鎮座している。能登半島の付け根のところだ。
この地溝帯が能登半島地震で地震の緩衝の役割を果たしていたかもしれないと言う人もいるが、それはそうかもしれない。
実際のところ、邑知(潟)地溝帯の東にある七尾は七尾市街や和倉温泉等、被害は甚大だったが、中能登町は勿論被害はあったものの死亡者はゼロ。羽咋市は1名だった。

先月(5月)に中能登町を訪れた時、"鵜様道中"の2日目の宿を提供されている中能登町良川の鵜家本家にお生まれになった道端弘子さん(「鵜様道中の宿保存会」事務局長)にお目にかかり、平安時代から続いている"鵜様道中"のお話しを聞くことができた。
この"鵜様道中"は中能登町の私の実家の前の道路を通っていた。そう言わてみれば、少し思い出した。

鵜様道中

国指定重要無形文化財になっている「氣多の鵜祭の習俗」の一環として、"鵜様道中"がある。

七尾市の鵜浦(うのうら)で鵜(鵜様と呼ぶ)を生け捕りにし、鵜捕部(うとりべ)が2泊3日かけて、七尾市〜中能登町〜羽咋市を経由して、羽咋の氣多大社へ運ぶ。
12月12日は七尾市泊、13日は中能登町良川(鵜家本家)泊。16日未明に氣多大社で鵜祭が行われる。

私は、鵜家本家で鵜捕部が担ぐ"鵜籠"を背負って、「ウットリベー、ウットリベー」と連呼した。こうして、民衆は鵜様に祈りを託すのだと。

[邑知(潟)地溝帯と鵜様道中]
東の七尾市からスタートして、中能登町を経由して、西の羽咋市までの鵜様道中だ。これは邑知(潟)地溝帯を東から西に横切る歴史あるお祭りだ。

能登はお祭りの宝庫と言われるが、私は"七尾の青柏祭"や"珠洲のキリコ祭り"しか知らなかった。
天が、「お前の生まれてきた原点の中能登に立ち戻れ」と言っているようだ。

道端さんから、お手紙をいただき、11月に行われる"鵜様道中茶会"に招待された。
この茶会は、毎年11月末の日曜日に、"鵜様の無事捕獲を祈願"して、中能登町良川の鵜様道中ミュージアムにて実施される。
今年は11月24日(日)になるだろうと。

氣多大社の宮司さんが祝詞をあげられて、皆んなで祈願する。羽咋市長や七尾市長、中能登町長もご出席される由。

16世紀から17世紀の哲学者であるフランシス・ベーコンは「知識は力なり」の格言を残した。すなわち、「人間の知識と力は一致する」という意味だ。ソクラテスも「汝自身を知れ」と言っている。そのままの自分を知ることが、自らの足らずを知ることであり、自らの足らずを知ることは人を大切にすることにつながる。そして、人に感謝する心が生まれ、幸せな人生をおくることができるのだ。

自分はなぜ生まれてきたのか、どこで何をするためにこの世に生を享けたのか。
自分の原点を知ることで、自分はこれから何を成せばいいのかが分かる。

中能登地域(邑知(潟)地溝帯)の地域活性化・地方創生からスタートさせよう。それが、[OUEN Japan]のネーミングの通り、日本を応援することにつながるのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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