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"鵜様道中の宿"を訪ねる

22日、良川の「えにし家」に宿泊した。今日もいつもながら、3時に目覚め OUEN blog を書いて今日の一日をスタートさせる。

朝食前に、「えにし家」の周りを散歩した。私のいつものウォーキングは2時間以上を要しているので、20分ほどは足慣らしだ。

私の実家は旧鹿西町の能登部上であり、良川は旧鳥屋町だ。私の伯母さんが嫁いだ在所であり、良川の家を訪れた思い出は幼少の頃の春秋のお祭りくらいだ。

金沢大学附属高校では、私が生徒だった半世紀前は、高校3年生の授業は12月で終わっていた。
年明け(大学受験の年)は、登校は週一で良かった。私は金沢の寺町の下宿を引き払い能登部の実家に帰るはずだったが、きっと実家では受験勉強に身が入らないと思ったのだろう。隣町の良川の伯母さんの家にお世話になりたいと父と伯母さんにお願いした。どうして伯母さんのところにしたのか。それは、私が伯母さんを大好きだったこともあるし、良川の家は勉強するのに環境が相応しいと思ったのだろう。
そんなことで、昭和46年1月〜2月の2ヶ月、東大受験前の2ヶ月間は良川でお世話になった。そして、勉強の合間に家の周りを散歩して気分転換をしていたのだ。

昨朝、散歩をしていて、半世紀前の町並みが甦ってきた。「あぁ、ここを歩いていたな。それじゃ、伯母さんの家はこの近くじゃないのか」と思って探したところ、直ぐに見つかった。その家の窓を見て、「ここで食事をしたな」とそんなことまでも思い出した。実に懐かしかった。
そして、私は週一の登校は、この良川駅から金沢まで出かけていたのだ。

「えにし家」で7時半から朝食を摂り、8時過ぎに前夜に語り合ったお一人の鵜家さんのご自宅に伺った。
鵜家さんは鵜家総本家の後継であり、ご自宅は「鵜様道中の宿」なのだと。

ふと、"鵜家さん"といえば、私が小学3年生の時の担任の先生だった鵜家かおる先生がいらしたことを思い出した。彼女は、穏やかな美人先生だった。聞くと、鵜家先生は、鵜家総本家の分家なんだと。
私は、先生から「鵜様道中の宿」の話は聞いたことはなかった。

鵜家さんには、隣接している鵜家先生のご自宅をご案内していただいた。先生ご夫妻がお亡くなりになって、お子さんは他県に暮らしていらして、今は空き家になっているのだとか。
こんな空き家はチラホラ散見される。震災後は、空き家の売却希望が多いのだとか。空き家の活用も[OUEN Japan] のミッションの一つだ。

私が幼少の頃、家の前の狭い道をお馬さんが通るお祭りがあった。鵜家さんのお話しを聞いていて、そのお馬さんが「鵜様道中」の祭りだったのだと思い出した。

[鵜様道中の祭りの由来]
大昔邑知潟に毒蛇がおり、村人が困り果て大国主命が鵜の手助けにより無事退治したことが庶民に語りつがれてきた民話から来ている。

七尾の鵜浦から良川を経由して羽咋の気多大社までの"鵜様の道中"だ。約40キロメートルの道中だが、その宿泊先の一つが良川の鵜家さんなのだと。だから、苗字が鵜家さんなんだと苗字の由来に納得する。

二泊目(12月13日)の宿は鵜家さん

大昔は良川の宮「白比古神社」泊であった(白比古神社には大国主命の息子神が祀られている)。
現在は鵜家総本家である。いつの頃からか記録が見つからず定かではないが、ある年、吹雪で前が見えないほどで鵜様道中が難儀されていた時、向岸にたった一軒、灯りのついた家があり「今晩はあの家に泊めてもらおう」と言って訪ねて来られたのが「鵜家」であった。

この鵜は海鵜でシベリアから渡ってくる渡り鳥だ(長良川の鵜飼は本来は川鵜なのだが、今は川鵜より大きい海鵜なんだと)。
12月に七尾で海鵜を獲って、籠に担いで、邑知地溝帯(七尾〜中能登〜羽咋)を羽咋の気多大社まで運ぶ鵜様道中だ。気多大社で神主さんが鵜のお告げを聞いて、その鵜を放つ。

私が幼い頃、邑知地溝帯にある邑知潟が干拓されたことを思い出す。この邑知地溝帯を鹿西平野と言っていた。能登部小学校校歌に"鹿西野々"という表現があるが、これが鹿西平野だ。低い丘陵が多い能登では、この細長い邑知地溝帯は唯一の平坦な平野だ。
能登の復旧復興の決め手はこの邑知地溝帯の活性化だと強く思う。七尾市〜中能登町〜羽咋市の強い連携が能登を元気にする。

また、能登は祭りの宝庫だ。青柏祭やキリコ祭りを筆頭に、能登の至るところに祭りがある。
能登の人は神様と共に生きる、神様に守られて生きる。能登はそんな里山里海なんだろう。

15歳まで産まれて住んでいた能登のことを私はほとんど知らない。中能登町のことも能登半島のことも何も知らない。
能登半島地震は、私にふるさと能登のことを教えてくれた。そして、能登のために尽くせと言っている。

私は、能登のことをほとんど知らないということを知った。

人間の幸せは汝自身を知るために、自らの原点に帰ることだ。
人生の最後(と言ってもあと30年〜50年の第二の人生だが)で、今私はその原点の入り口にたどり着くことができたように思う。

これから毎月、能登をはじめとした石川・富山への出張をしようと思う。
人生という長丁場ではあるが、私の原点を探し、深掘りし続ける毎月一度の北陸出張になるだろう。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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