鵜宿と能登の復興、地方創生
2000年に国の重要無形民俗文化財に指定された「氣田の鵜祭の習俗」の一環である”鵜様道中”は、七尾市の鵜浦で生け捕りされた鵜様(海鵜)を鵜捕部(鵜の捕獲者)が2泊3日かけて氣多大社へ運ぶ。
12月12日は七尾泊、13日は中能登の良川泊(鵜家本家泊、鵜宿)で、12月16日未明に氣多大社で鵜祭が執り行われる。この鵜祭は遠く平安時代より続いているイベントである。
今年は、12月13日まで、鵜浦海岸で鵜様を生け捕りにすることができなかった。地球温暖化で鵜が北上しているせいもあるのだと。それに輪をかけて能登半島地震で鵜が集まる崖が崩れてしまったせいもあるだろう。
そのようなわけで、鵜様が捕れず、今年の12月13日は鵜宿での鵜様の宿泊はなくなった。
しかし、国の重要無形文化財指定25周年記念イベント(石川県文化活動支援事業)は、鵜宿(鵜様道中ミュージアム)にて13日14時から粛々と開催された。
記念イベント
⑴講演会
①演題 「渡鳥・海鵜の生態、鳥が飛ぶ羽の仕組み」~鵜をはじめとした鳥類の生態を学び、自然とのつながりを大切に~
②講師 藤井匠也氏
石川動物園勤務、動物教育家、教育・体験型動物園 ZOO TIME園長
⑵謡曲「鵜祭」上演
①演題 「朝廷から勅使が氣多大社へ鵜祭を参拝にやってくる」
②上演者 宝生流・七尾謡宝会
③主催 鵜様道中の宿保存会
④後援 氣多大社、中能登町観光協会、北國新聞社、中能登町文化協会
[海鵜は渡り鳥]
・古代の人々は、渡り鳥に神様が乗ってやってくると考えていた。海鵜は神様の鳥、神鵜である。
・11月末頃になると、シベリアから日本に南下してくる。
・北海道に自然繁殖地がある。
[鵜の特徴]
・鵜は人間と親密性が高く、人々の身近に生息していた(川鵜)。
・鵜は神聖視されていた。
・鵜の羽根には安産の霊があると考えられていた。
・鵜は空を飛ぶ。
・水かきがあり、水中を潜る。
・魚を捕獲し、吐き出す。
・鵜の視力は、人間の約6倍ある。
半世紀ぶりに能登で生活をする。半世紀前の私が幼いころには、何とも思わず能登で生活していた。能登半島地震があって、潜在化していた能登への想いが顕在化してきて3月から能登に来ることになった。中能登町地方創生アドバイザーに就任して、11月から月のうち2週間は能登に暮らそうと思うようになった。
祖父母に育ててもらったことが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「あぁ、私は歳を取ったものだ」と思う。だから、こんなにも生まれ育った能登のことを思い起こし、能登のために後半生を捧げたいと思うようになったのだ。それも無理をしてそのように思うというのではない。ごく自然に、そのような感情が湧き上がってくる。
過疎地の先進地帯、特に能登半島地震があって、そして今、能登半島は自他ともに認める超過疎地の先頭を走っている。私は、中能登町を起点として能登の復興・創生をしようと思う。
日本国中、これから長い年月をかけて、どこもかしこも過疎地になっていく。そのモデルを能登でつくる。そのための発信地が能登であり、その拠点が中能登町である。私の「世のため人のため」は、「能登の復興と地方創生」にある。能登の地方創生が、私の第2生のミッションである。
13日は、みおやの里から鵜宿まで、4.9㎞を1時間でウォーキングした。一日中鵜宿で過ごし、鵜様道中のイベントにもベッタリ参加させていただいた。少しずつ、中能登町に親しんでくる。
イベントが終わって、外は小粒の雨模様だ。寒い。完璧の防寒対策をしてきたが、このまま歩いてみおやの里には帰りたくない。
鵜宿から徒歩5分もかからないところに、焼き肉「一平」がある。私の従兄の次男である泰平君が経営している店だ。
「そうだ、一平で一杯やって帰ろう」と思って、一平に足を向けた。
3月から能登に来て、今回が4回目。開店は6時だが、4時半でも開けてくれた。
「今日は忘年会がいくつか入っている。あんちゃん、今日は一人なんだろう。カウンターなら空いている」と、4時半から3時間、焼き肉と芋焼酎のお湯割り、上りはラーメン。
タクシーを呼んだが、30分かかるという。それでも結構だと待っていた。しかし、タクシー会社から一平に電話があり、金沢に行く客があるのでキャンセルしたいと。なんだ、まったく顧客志向ではない。馬鹿正直だが、失礼千万。田舎はこんなところがある。タクシーの台数も3~4台なので、稼げる客がいたら予約客でも断ることは意に介しない。東京では考えられない。
泰平君は、「女房に送らせるから少し待っていてくれ。あんちゃん、これから一平に来る時は、良川に住むようになってからにしたらいいよ」と笑ってそんな冗談を言う。能登でタクシーはあてにならない。
また、泰平君が言う。
「なんで中能登に来て地方創生アドバイザーになんかなったんだ。中能登町は何にもない町だ。何の魅力もない町だ。生きるためにしかたなく住んでいるようなところがある。なんで好き好んで中能登町に来たんだ」
私は言う。
「だから中能登町に来た。ふるさと中能登町に来た。来てみると、今まで何にもないところだと思っていた中能登町だったが、だから何でもできると思う。何にもないと思っているから何にもないんだ。町が持っている素材を磨いて、創意工夫して、それを表に出して、世間の人たちに『これが中能登町だ』と思ってもらうことをすれば、町は大きく変わっていく。私はそのために、人生最後の仕事をするために、ふるさとの中能登町に来たんだ。これからもどうぞよろしく」
泰平君は、分からないようで、「あんちゃんらしい」と分かったような顔をしていた。とにかく、実績で示すことだ。謙虚と感謝の心を持って、中能登町、能登半島のために尽くすことだ。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)