青春の心で白秋を生きる
昨日は久しぶりにミンちゃん(崔珉徑さん)が事務所にいらした。2年ぶりくらいだろうか。彼女はフォトグラファーで、私のポートレートを撮ってくれている。
彼女は、韓国から日本に来て20年以上だとか。韓国より日本での生活が長くなったそうな。お仕事でパリに出張することも多いのだとか。とても頑張り屋さんだ。
ミンちゃんは、住友生命の異業種交流会で私が知り合った女性のビジネスパートナーだった。
彼女たちの会社は南青山にあって、私の事務所とは2〜3分の至近距離にあったことも親しくなった一つだ。福岡でのOUEN塾の写真は、全てミンちゃんたちにお願いした。
ここのところちょっとご無沙汰していたが、彼女から「団長、事務所に伺ってもいいですか」と連絡があり、私もOUEN Japanの活動が能登創生の応援にシフトしていて、中能登町でもOUEN塾の開催を考えていることでもあり、お会いしたいと思った。
2年ぶりの再会だったが、いつも会っているかのようなザックバランな雰囲気でお話しすることができた。
彼女から韓国の特産という干し柿をいただいた。干し柿は中能登町の特産である"ころ柿"と同じだ。
平安時代、中国東北部にあった渤海という国と能登半島とは交流があった。日本の窓口は今の志賀町(中能登町に隣接している)の福浦港だ。志賀町も"ころ柿"が特産だ。能登の"ころ柿"は、大陸や朝鮮半島から伝わってきたのかもしれない。
私からはミンちゃんに大連土産の紅茶を差し上げた。
事務所に満州帝国の地図が貼ってあって、中国東北部と朝鮮半島が描かれている。
「団長、どうして大連に?」
「何でこの地図を貼ってあるの?」
そんなことで、9月初めの中国東北部(大連と哈爾浜)へ旅することになった顛末を話した。
OUEN Japan副団長が黄さんというハルビン出身の女性であり、黄さんの実家も訪ねたこと。黄さんは朝鮮民族で、実家の在所の人たちは皆さん朝鮮民族だったこと。ミンちゃんとは同じ民族で、黄さんとは私を通じてご縁ができるだろうと思ったこと。
そんなことを話した。
私はこんなとき、すぐに電話をしてしまう。これが私なりの人脈のつくり方だ。何事もクイックレスポンスが肝心だ。すぐに、黄さんとミンちゃんと私のグループLINEをつくった。
黄さんとミンちゃんも電話でお話しして、来週の金曜日の27日に、外苑前で懇親の席を持つことになった。
こんな風にして人脈はどんどん拡がっていく。友だちになるのに時間は重要だが、付き合う時間が長ければいいと言うものではない。
一番大事なことは、温かい心、Warm Heartだ。ビジネスの前にWarm Heartがなければならない。
19日、中能登町にご一緒したエマさんも、黄さんと出会って3ヶ月と短い。それでも私は昔からの友人のようにザックバランにお話しすることができた。黄さんは、范さんからエマさんをご紹介されたのだと。私は黄さんから范さんをご紹介された。
"友だちの友だちは皆友だち"
"類は友を呼ぶ"
このフレーズを念頭に置いて生きていけば、素晴らしい人脈がどんどん拡がっていく。人脈を拡げ続けることができる。これは決してビジネスOnlyのビジネスライクの人脈ではない。
その温かい人脈が自然体でビジネスにつながっていくのであり、それを決してビジネスライクとは言わないだろう。
皆んな友だち。それも、今のところ全て女性だ。女性のほうが圧倒的に感性が豊かだ。その理由は、子どもを産み育て、世間の差別の目に淡々と耐えて、それでもケロッと根明に生きている。その逞しさ、強さがなせるわざなのだろう。
"苦労が人をつくる"
"強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない"
私は古稀を過ぎてから女性の友だちがどんどん増えてきている。おじいさんだからだろう。そして、気持ちが若いからだろう。
20代、30代、40代、50代、60代と全て私より若い女性たちばかりだ。
若いということはいいことだ。若い心があって、老練の技が生きてくる。老練には若さが不可欠なのだ。
東京と能登の二拠点生活。
これが、私の若さをますます老練の若さに磨き上げてくれる。
青春の心で白秋を生きる。何と素晴らしいことではないか。
不動院重陽博愛居士
(俗名 小林 博重)