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私も暮らすこの社会

 社会という言葉は、どういうニュアンスで使われているのだろう?どうも私の思う社会と、現在で使われる社会という言葉は、もう微妙にニュアンスが違っているようだ。


 多くの社会問題に対して、もっと社会が変わらなければという言葉が使われます。そういう時に使われる社会には、言葉を発した本人が含まれていないように思います。


 社会という言葉の中には当然自分自身も含まれている。私は解釈していたのですが、必ずそうではないよう。明らかに(私の関知しないという意味の)社会という言葉は、いつしかリバーシブルな言葉に変わってしまった?と同時に人間の帰属意識のようなものも薄れているのでは。


 (私の関わっていないという意味の)社会というフレーズには、誰も責任は負えない。社会って日本に住む人全員が、当初は含まれているはずだったのに・・・。次第に当事者性が欠落したワードになってしまった。自分のせいではない誰かのせい。そんな投げやりな気持ちも、多少はブレンドされてしまった。


 かなり変な形で熟成発酵された言葉の1つです。そういう言葉の方が、多用しやすい。誰のせいでもないし、誰も悪くない。すべてが曖昧なまま、なかったことに・・・。この言葉の裏には、声を上げてもどうせ変わらない。諦めと関わりたくない気持ちが両方混在している。


 (当然私自身も含まれる)社会という言葉に、もう一度上書き処理するには、どうすればいいのか?とずっと考えています。私が生きるこの社会。あなたと生きるこの社会。そう思えるようになったら、社会という言葉はすごく重たい。



 社会という言葉は、自分にも跳ね返ってくる言葉になりますから。社会は自分と無関係な世界にあらず。誰にとっても社会を構成する大事なメンバーであることに変わりはない。これからもずっといくら時代が変わっても。


 


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