生きる理由
人は、理由があれば耐えられるが、理由が無いと耐えられないらしい。
例えば学生のころ、「なんのために勉強するのか」悶々としながら、大学受験のためと理由付けして頑張ってきた人は多いのではないだろうか。
なら生きるのは?どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか。
私は死にたいわけではないが、生きたいとも思わない。二十年生きてきた、という積み重ねがあるので惰性で生きてはいる。
幸せや喜び、楽しいことは溢れるほど持っているけれど、それらを生に執着する理由にするには薄過ぎる。
諸行無常、会者定離を意識しているから、常に今を全力で味わう努力をしている。味わって満足しているので、いつ失ってもいいと思う。
執着は苦しみを生むだけだと思い捨てたのだが、生きるにはある程度の欲と執着が必要なのかもしれない。
一体、何に執着すればいいのか。
一体、何のために生きればいいというのか。
のほほんとしているように見えても、心のなかで生きる意味を探し迷っている人は、意外と沢山いる。
そういう人のほとんどは、現実から目を背け仕事や恋人、子どもに執着を向けるが、解決にはならないので段々と不安や恐怖に人生を支配されていく。
そもそも、人のために生きても誰のためにもならない。
まず前提として、恋人や友だちなどというのは「一緒にいると自分が楽しい気持ちになる、一緒にいる自分が好きになる」ものである。
自分のために相手にそばにいてもらっているのに、「こんなに良くしてやってるんだ」と相手のためであるフリをすれば、相手は傷つくし離れていく。
確かに、母性やら保護欲やら相手のためになるものもあるが、自分の人生を生きるための理由には適さないのである。
仕事、すなわち名誉や権力への執着も生きる理由には適さない。
例として、「白い巨塔」という小説(ドラマ化もした)をあげてみる。
優秀な腕を持った医者が、最初は患者のための熱意に溢れていたが、次第に名誉や権力に執着するようになり、周りから人が離れていき、挙句に癌になって治療に苦しんだ末、後悔に苛まれながら何もかも中途半端なまま孤独に死ぬ話である。
この小説が人々の心を掴んだ理由は、概念である「死」に姿形を与えたことと、多くの人が人からの称賛に執着しているからではないだろうか。
この白い巨塔のように、執着は破滅しか生まない。
そもそも、生きる理由として執着するものを見繕うこと自体が、正しくはないのかもしれない。
先日、尊敬しているとある方に「生きるためには何に執着したらいいですか?」と聞いてみた。
するとその人は、「いかに気持ちよく過ごすか、にこだわってよいと感じます」と言った。
気持ちよく過ごす、というのは楽しいことをするとか、おいしいものを食べるとか、幸せを感じるものに触れるということ。気持ちよさだけを追求するなら、薬物や三代欲求に溺れるのもある意味間違ってはいないだろう。
その人の言う「こだわってよい」という言葉に、私はとても感動した。
「こだわり」と「執着」は似て非なるものである。
自信を持ち、自己肯定感を高めるもの。建設的に生きるためのものが、「こだわり」。
こだわりを通すこと、を目的にすること。苦しみしか生まないのが「執着」。
私はきっと、死を意識するあまり「執着」のほうを選んでいたのだ。こだわりに言い換えてもらって、心が軽くなった。
その人はこうも言った。
「アドバイスとしては、人は死ぬために生きてます。
いかに死ぬときに良い思い出を持っていられるか、
自分を好きでいられるかが、幸せなのだと感じますよ」
これを聞いて、私は幸せとは何なのかと思った。
「食べ物がおいしいとか、友だちといて楽しいとか、幸せに思えることは沢山あるのに、それでも不幸だと感じている人がいるのは何故だろう」
と常々思っていたのだが、その人の話から察するにそういった幸せは偽物ということかもしれない。
偽物、というよりは真の幸福とは自分を好きでいられるかなのだ。
今ある幸せで満足している(と思い込んでいる)私は、幸せだけど生きたくないのではなく、真の幸せから目を背けているだけなのだ。
諸行無常、会者定離なんていっている時点で「今」に執着しているのだ。
人生は長い。
たとえ明日事故で死んだとしても、人生は長いのだ。
気まま気まま、流れるままに、時の流れに身を委ね、今日も思い出づくりに励んでいこうと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?