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頭文字Dの考察及び随想

※ネタバレ※ネタバレあり※ネタバレありますので読了した方のみお願いします※文章がクサくて読みづらい可能性あります※あらすじが著作権に引っかかる等、お気付きの点がありましたらご指摘頂けますと幸いです



本題へと入る前に、まずは少しだけ私の夢を聞いていただこう。

スポーツ選手などが入る、超集中状態「ゾーン」を知っているだろうか。私自身は学生時代の部活動を通して、何度か経験をしたことがある。

ゾーンに入ると、音が消え時間が止まったようになり、勝ちたいとか次はこうしようと考える脳での理解を超越し、肉体の感覚と次にとるべき挙動だけが分かる、無我の境地を体験することができる。カメラの長時間露光で車を撮影すると、レーザービームのような光の軌跡だけを写すことができるが、あんな風に取るべきラインを実体として認識し、それに体がついてくるのをただ感じたあの時、私は自身の背中に真っ白に輝く翼がはえたような感覚があった。(イニDのラストバトルで、ハチロクに翼がはえたように……)

勝ち負けの問題ではない、そのスポーツを通して自身の根底にある欲求が引き出され、それが生きる喜びと一体となった瞬間、天にも勝る至高の喜びを経験することができる。マグマが吹き出るような激しく熱いそれは、自身の持つあらゆる能力が極限まで引き出されたことによる、魂の歓喜の叫びだったのではないだろうか。

そして私の夢とは、スポーツなどの特定の状況に頼らず、人生そのものを舞台としてゾーン状態へと持っていくこと。私自身だけではない、あらゆる全ての人類が輝きに満ちた顔で、喜びに溢れて生きる世界を目指し、その論理を確立させることが夢であり人生を賭した目標なのだ。


そして、頭文字Dはゾーンに入った状態に限りなく近い感覚を感じられる、情熱そのものが実体化したとまで言えるような作品であった。

『頭文字D』(イニシャル・ディー、英語表記: Initial D) は、しげの秀一による峠の走り屋の物語。それを原作にしたテレビアニメおよび映画。通称「イニD」[3]。『週刊ヤングマガジン』(講談社)にて、1995年30号から2013年35号まで連載された。(Wikipediaより)

頭文字Dの舞台は、群馬にある秋名山という架空の山の峠から始まる。ただ、そのモデルは群馬県の榛名山で、マンガ内では伊香保温泉石段街や「ここ伊香保にだって温泉はあるじゃんか」というような発言も出ている。また、赤城山や日光いろは坂、ハチロクやランエボなど実在する地名や車が多数出てきており、とことん追求されたリアリティ溢れる情景と、突然現れるファンタジックな場面のギャップがこの物語の最大の特徴であり魅力でもあるのではないだろうか。

車やレースの出てくる場面が多いために、車漫画と一括されがちな作品であるが、私に言わせればこれは感覚派のための哲学書である。チームDのWエース、藤原拓海と高橋啓介は感覚的に捉え進化していく天才肌だが、まさに彼らのような読者のためにつくられたものではないだろうか。作者もインタビューで何度か「車マンガではなく、青年の成長物語である」と言った(※要出典)らしいが、この作品は大人になりきれない大人たちのための作者の愛そのものであるように感じられる。

しかし、その真意を汲み取れている人はどれほどいるだろうか。特にチームDが始まった後のストーリーは、自分の人生に正面から向き合ったものでないとその意図は理解し難いであろう。

まあ作者以外の人間が「理解した!」と言うのは余りにもおこがましいので、一個人の意見として考察をまとめることにする。頭文字Dと作者に対する愛情表現だと思って、楽しんでいただければ幸いである。



・頭文字Dの構成

頭文字Dは時系列で進み全48巻で一つの作品となっているが、その内容は前編と後編に、更に後編は四つの段階へと分けることができる。

普段は無気力で無関心、口数少なく表情に乏しい少年が、自身の才能と"守りたいもの"を自覚し、夢を見つけるまでが前編(高校三年生〜卒業後、プロジェクトDの始動まで)。プロジェクトDのWエースとして夢に向かって猛進し、バトルの度に驚異的な進化を遂げながら関東完全制圧にいたるまでを後編とする。一見、生まれ持った非凡な才能と父親による英才教育ありきのサクセスストーリーのように見えるが、車やドライビングテクニックは物語に笑いを与えるための道具に過ぎず、その本懐はどこにでもいるような平凡な青年の成熟過程を描くところにある。

テーマをつけるとすれば、前編は"子どもから大人へ"の生まれ変わり、後編は"大人から一人の人間へ"と生まれ変わりである。

たまに頭文字Dの感想で「プロジェクトDが始まってからバトルばかりで面白くなくなった」というコメントをみるが、走り屋として目覚める前は拓海の自我を育むために意図的に他者との交流を多く描かれていた、自分と夢を見つけ(大人になって)からは自我を確立させるために孤独に身を投じるようになったのだと捉えられないだろうか。


 後編について、はじめに四つの段階があると説いたがこれはそのまま、最後にして最難関である神奈川で待ち構えていた「4段階の防衛ライン」のことを示している。(ここでだが、前編は主に拓海一人を通して子どもとは何たるかが描かれているが、後編では複数人を通してひとつの青年の姿を描いているということを想像して頂きたい)

第一段、ヤビツ峠でのアマチュア(プロジェクトD)対アマチュア(チーム246)戦は、思春期の万能感が打ち砕かれる、現実と擦り合わされていく様を呈している。実際は敗北したチーム246は元プロレーサーのメンバーもいるくらい実力あるチームであるが、物語とは全く別のテーマとしての感覚である。「オレが一番速いんだ」から「こんなすごいやつもいるんだ」と、チームDの技術に圧巻され心境が変化していく様は、子供から大人になる第一歩のそれと似ている。

第二段、長尾峠でのアマチュア(プロジェクトD)対プロ(プロレーサー)戦は、自分を失う、機械になった大人がいかに少年の心に戻れる(バカになれる)かをテーマにしている。サーキットでのレースは情報戦、「ドライバーをコンピューター制御のサイボーグに作り替えること」が速さに繋がるとされているが公道はその正反対、計算しないミスを恐れないとにかくがむしゃらに突っ込む(バカになりきる)ことが速くなるということである。個性を失った現代の大人たちにむけた、若き日の我々自身によるレジスタンスのようにも感じられる。

第三段、箱根新道での公道最速理論(プロジェクトD)対ゼロ理論(チーム・スパイラル)戦は、人の持つ弱い心と欲望をテーマにしている。ゼロ理論を提唱するスパイラルの池田竜次は、無の境地という独自の理論をもって走る。この理論は、ドライバーの感情を限りなく無に近づけて走ることで車からの情報を読み取り、それにドライバーが運転技術で応えることで最適な走行を実現するというものである。一方公道最速理論を掲げる高橋涼介は、ゼロ理論は方法は間違っていないが「人間である以上、感情を無にすることなど不可能である」としてこの理論を否定。後に涼介の走りを見た池田は「心を閉じることなく 開きながら恐怖や怒りを心に留めない。あれこそオレが目指す理想的なゼロの心だ」と改心している。結局第三の戦いは"闘争心"の有無によって勝敗が分かれた。

第四段、プロジェクトDにとって最後の活動であるサイドワインダーとの戦いは、幽霊VS人間がテーマになっている。高校生の頃の主人公、藤原拓海は今まで早朝に走っていたため走り屋に知られることは無かったが、明け方まで熱心に練習していた高橋啓介を悠々と追い抜き、圧倒的なテクニックで啓介に「俺は、秋名で死んだ幽霊でもみたのか……?」と言わしめる。あの時の拓海は、親に言われるがままに走らされ商売の手伝いだからと楽しむことを知らずにいた。そして第四段のラスボス的ドライバーである乾信司は18歳の少年で、片親であり無免許で運転をしていたり母親に言われたからバトル会場に来ているなど、拓海の境遇とよく似ており、モチベーションの低さも当時の拓海とそっくりである。地元のコースを誰よりも熟知しており、ステアリングを握った信司は、まるで別人のように強気な性格に変貌し、コーナーごとに拓海のハチロクを引き離していくほど速かった。秋名の幽霊ならぬ箱根の幽霊的存在となっている。

高橋啓介はバトル前日のプラクティス(練習)終了後、藤原拓海に対し「(お前の相手は)多分幽霊みたいなやつだ……オレのカンではおまえ めっちゃ苦戦する」と忠告する。一方で「けど おまけが負けるとは思わない。なぜならおまえも昔は幽霊だったからさ……」「今は足がある だからお前は負けないよ…」とも言った。幽霊と人間の違いはなんだろうか。あの時の拓海が持っていなかったもの、今の拓海が持っているもの。大切な仲間、恋人、車、自信と信頼、そして「頂点に立つドライバーになる」という自分の意志である。最終的にこの勝負は、意地でも前に出てやるんだという意志、地に足の着いたこころざしが明暗を分けた。


まとめると

自我の芽生え→挫折→孤独(自分との戦い)→無我→真我(希望、幸福)

という、エリクソンの発達段階と近い、誰もが通る成長の道を物語全体で伝えている。

現代の日本人の多くは、高橋啓介の最終戦の相手である北条豪とよく似ている。北条豪は昔、高橋兄弟のように兄と非常に仲が良く、兄の背中を追いかけながら成長することが生きがいだった。しかし、兄の北条凛は自身の婚約者の自殺により自暴自棄になり、その姿をみた豪は幻滅し兄との交流を断絶する。兄へのジレンマと楽しかった過去に囚われた豪は、マシンの性能と頭で考えることに頼りきるようになっていた。豪の計算上では勝ちが確定していた最終戦だが、高橋啓介の努力と人間の可能性が車の限界を突き破り、豪は負けを悟ると同時に開き直り「原点こそ……全てだ!!」と楽しむことを思い出すのだった。

北条兄弟は共に過去に囚われ、今を生きることを忘れたその姿はまるで亡霊のようであった。しかし、兄の凛は涼介に、弟の豪は凛と啓介によって呪縛から解放され、車と自分自身の喜びの原点と、生きることそのものに立ち返ることができた。北条兄弟だけではない、今までバトルをした人達、関わった人達全てが二人のドライバーとプロジェクトDに魅了され、勇気と感動を貰いその姿に励まされた。そして我々読者もまた、生きる希望と「自身の可能性が広がったときに感じる感動」という至高の喜びを教えてもらったのである。



・プロジェクトDの由来

頭文字Dの"D"には、ふたつの意味が込められていると言われている。ひとつは、藤原拓海の十八番(おはこ)であるドリフト(Drift)のD。もうひとつは、プロジェクトDの"D"である。

ではプロジェクトDの由来とは一体なんだろうか?それは、神奈川第三と第四戦の間で人知れず起こった高橋涼介VS北条凛の戦いのなかで明かされていく。

高橋涼介は三年前、大学の一年先輩の香織と恋に落ちる。彼女には親の決めた婚約者(北条凛)がいたが、香織は涼介を選ぶ。北条父(病院院長)に恩があった香織の父は香織をとがめ、結果的に香織が自殺するというショッキングな結末を迎えた。そして、北条から申し込まれたこのバトルが行われたのは、香織の2回目の命日であった。


「涼介クンの夢って何……?」

涼介の回想の中での話である。香織は生前、禅問答のような質問を度々投げかけていた。香織は涼介に「男の人には、現実的な目標とは違う"夢"があっていいと思う」と言い、また好きな人が夢を追いかける姿をそばでずっと見ていたいと話した。


香織が自死を選んだ原因は、大きく分けて二つあると思う。

一つは、「なんとかなるさ」と思えなかった、人生を深刻に考えすぎていたということ。自分以外の人の問題まで背負い、全部自分でどうにかしようとした。でもできないから自死を選んだのである。他人の問題まで背負ってしまった代償に、今度は残された人間たちが香織の問題を背負う(後悔、自責)ことになる。

二つめは、自分の夢を持とうとしなかったことである。「女の子は現実的な目標だけで生きていけるから。夢を追うのは男のヒトだけの特権だと思う」と彼女は言ったが、老若男女どんな人も夢は持っていいのである。人間も、世界も、この世のあらゆることは日々変化し進化している。そんな中で自分の枠を決めてしまうのは消極的自殺に他ならない。夢は大きければ大きいほどいいのだ。夢は欲望の一つだが、欲は希望でもある。夢がない人生は希望のない暗闇と同じである。

香織が「好きな人の夢を追いかける姿を見ていたい」と言っていたのは、また我々読者が頭文字Dに沢山の励ましを貰ったのは、希望の中で生きる人は誰かにとっての希望にもなるということだろう


涼介は香織の死後、後悔と自責の念を抱えながらも前を向いて生きることを決意する。そしてプロジェクトDreamの発足に至るのだった。



・意地とプライド

プロジェクトDの理念は、相手の地元(圧倒的に不利な状況)に赴き、その中で勝つことにある。

そこで毎度のように相手のチームから出るのが「(勝ってみせる)地元の意地とプライドにかけて!」という言葉である。誰よりもその地で練習した自分自身と、そんな自分を育ててくれた峠に対する信頼と誇りなのだろう。しかしそんな意地とプライドも、拓海たちの圧倒的なテクニックによって粉々に散っていく。ところが勝敗がついた後の負けた人たちは、とても清々しい顔をしていて、傷つくどころかまるで憑き物でもとれたように新しい自分へ生まれ変わっているのである。

ここから伝わってくるのは、まず意地とプライドは捨てるものではない、大事にしていいということである。現代の日本人は、「お金になるから」「そのほうが面倒ではないから」とそれらを蔑ろにしている節がある。

次に、意地やプライドだけでなく、車に対する情熱や楽しみ方も、その時々で姿形を変えていくということである。頑固と意地は似て非なる存在だ。頑固とは変わろうとしないことだが、意地とは他人になんと言われようと自分で自分の人生を決めるという覚悟の形ではないだろうか。


「夢」とは意地とプライドを突き詰めたものである、と私は思う。 

大金持ちになりたいとか、(働かず)遊んで暮らしたいとか、自分の適正と違うと気付いていながら「○○になりたい」と考えるのは、欲ではなく迷いである。夢は、そのほとんどが言葉として現せるものではなく、自身の生に対する根源的欲求を追い続けられた者だけが手にする栄光の証なのかもしれない。



・まとめ

藤原拓海が勝ち続けてこられたのはなぜか。

それは、最終戦の中で涼介も言っているが「変化することで進化する」ことができたからである。拓海は、自身より優れたドライバーの後ろを走ると、まるでコピーしたかのように柔軟に進化することができた。危機的状況に陥ると"藤原ゾーン"という超集中状態に入り、それが限界のその先へと押し上げるのだ。また、涼介は「継続する情熱こそ天才」と言っていたが、「頂点に立つドライバーになりたい」という夢と走る楽しみを忘れなかったのが、彼をここまで成長させてくれたのだろう。

一方現実を生きる我々は勝ち続けることなどまずない上に、彼らのように情熱を傾けられるものに出会えることもほとんど無い。でも、理屈で言えば"生きることそのもの“に情熱を持ち、ライフステージの変化を楽しみながら、新たな自分を発見し続けていけば、「イキイキと、情熱的な」人生を歩むことも不可能ではないはずである。

車をドリフトさせることはできないけれど、頭文字Dのファンとして、また人生のDrifter(放浪者)として、人間の可能性に挑戦し続けることで、彼らが心の中で生き続けでくれたらと思う。







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