バカが運転免許とりにいく話②〜燃えよ怒りの仮免編〜

=前回までのあらすじ=
運転免許の必要性に駆られ、満を持して自動車学校への入校を決めた妻。しかしそこに彗星の如く現れた邪魔者・夫の一言でAT限定ではなくMTの選択を余儀なくされる。
我が家の車はAT車である上に教習料金はビタ一文も払わぬ夫に「AT限定でしか合格できないバカは車に乗るな」と言い放たれ、必ずMTで免許を取ってみせたのちに真っ先にこいつを轢き殺すと固く決意する妻。
さあドキドキの教習所ライフ、妻の命運やいかに。


冷たい北風に紅葉は色褪せ、本格的な冬へ移り変わろうとする季節。
遠くには白くなりつつある山々が見える広大な土地に、ぽつんと立つ自動車学校。そこに足繁く通い詰める一つの影があった。
妻である。

相も変わらずすっぴんにボサボサの髪をひっつめ、忍のごとく音も立てずにコソコソと移動している。
なぜこんなに身を縮めて隠密行動をしているのかというと、やはりすれ違ったり一緒に授業を受けたりするのがみな高校生や大学生くらいの若い学生ばかりだからである。恥ずかしいのだ。身だしなみを整えないアラサーの忍にも羞恥心はある。

月曜日から土曜日の日中はほとんど毎日学校へ行き、学科の教室から技能のコースへ、技能のコースからまた学科の教室へと、天井裏や屋根伝いにあちこち移動して勉強する日々であった。

さて、その肝心の技能、つまり実際の運転についてである。
妻は普段から車体感覚はおろか人体感覚すらイマイチ掴めていないので、家の中でもしょっちゅうあちこちにぶつかっている。身の覚えのないアザが足に、なんてことは日常茶飯事なので、間違いなく車の運転はド下手であろうと予想していた。ともすればどうにかしてコース内で教官もろとも事故に巻き込んでしまうかもしれないと。

しかし初めての技能を控えた前日の夜に、夫からふと「お前は十年以上ピアノやってたんだから大丈夫だろ」と言われた。
確かにピアノやエレクトーンは両手と両足が常にそれぞれ別の動きをしている。目も頭も使うし、ペダル操作なんかは自動車でも似たようなものかもしれない。

「これはいける……!」
妻の目が光る。
そうしていざ臨んだ技能の時間、妻は初回から見事なクラッチさばきとギアチェンジを見せカーブや安全確認もお手のもの、コース内をなめらかに走る姿はまるで風に乗るツバメのようになるはずもなく、普通に来る日も来る日も厳しく注意を受けては落ち込んで泣きそうになりながら帰りのバスに乗り込んでいた。

正真正銘のド下手であった。
オートマ車ではなくマニュアル車というのがまたそれを助長させている気もするが、恐らくそれとは関係なく本当に運転が下手だった。

晴れの日はエンストし、雨の日はポールを倒し、雪の日は脱輪し、西の空に虹がかかる爽やかな快晴の日は開幕初手で三角コーンをぶっ飛ばした。

何度教官にブレーキを踏まれ、何度教官を助手席から飛び出させたか分からない。
妻がはっ倒したコーンやポールを慌てて立て直しに行く教官の後ろ姿を見ながら、もう消えたい・いっそ妻がそのコーンになるから一思いに殺してくれと何度も願った。

今まで妻が運転免許を持っていなかったのは社会貢献だったのだと気付いた。
こんな人の形をした殺人マシーンがハンドルを握って公道なんぞを走ろうものなら、間違いなく恐ろしいことが起こる。
妻が通った場所はたちまち更地になり、罪のない人々の屍が累々、ついでに駆けつけた警官もパトカーもろとも遥か彼方へ跳ね飛ばしてしまうに違いない。まさに地獄絵図、阿鼻叫喚の巷である。

車とは斯様に恐ろしいものなのか。もういっそATとかMTとかの垣根を超えてUMA(馬)へとコースチェンジした方がいいのではないか。

しかしもう何時間もマニュアル車に乗ってしまっていたので、今さら嫌だ嫌だと駄々をこねてもどうしようもない。
AT限定へ切り替えるには遅すぎるし、冷蔵庫の横に戒めとして貼ってある35万円の領収書は毎日無言のプレッシャーをかけてくる。

腹をくくって努力し続けるしかない。
分かってはいるけど、どうしても運転が嫌だ。


そう思っていた矢先のことである。
ある日、仕事から帰宅した夫に「今日は教習所でこんなことを習ったのだが、これこれこういうところがよく分からない」というような話をした。
そこで返ってきた夫の言葉がこれである。

「なんでそんなことも分かんないの? 運転するの諦めたほうがよくない? 今まで別に困ってなかっただろ」

ここで妻は思い出した。
己に課せられた使命は、この邪智暴虐のモラハラ王をこの世から除くことであると。

他人の気持ちが理解できず、人を馬鹿にするようなひどい言葉をふっかけてくる夫。
弱みとみたらすかさず刺しにくる夫。

妻は激怒した。
そもそも運転免許が必要なのはこれから子ども二人を抱えながら家族を守り家計を支えるためである。お前の稼ぎと、子ども手当までも黙ってふんだくるようなお前のガバガバの金管理では足りないのだ。

お前がバカみたいに釣りだのなんだのと自分のためにしか時間を使わないから、お前の代わりに子ども達をどこか楽しいところに連れて行ってやりたいのだ。急な発熱や入り用のものが出てきたときに、話を聞いているんだか聞いていないんだか分からないお前に代わって自分でさっさと動きたいのだ。
お前がだらしないおかげで困りごとが山ほどあるからこうして人の形をした殺戮マシーンが自らハンドルを握る決意をしたのだ。
困っているように見えないのは、妻が今まで困りごとをそのままにせず自分で解決してきたからだ。

と、言いたいことは山ほどあったが、どうせ呪われた夫の頭と耳に語りかけたところで徒労に終わり余計なストレスになるので黙っておいた。
その代わりに、心の中で夫へ感謝した。
やる気を出させてくれてありがとう、夫よ。
テメエは必ず軽トラでぶっ殺してやるからな。


そこからの妻はすごかった。
夫からの嫌味というブーストを受け、沈んでいた殺る気(やるき)は見事なV字回復をみせた。
子ども達を寝かしつけたあとの時間は勉強に費やした。
時には風邪をこじらせ永遠に泣き続ける次男を看病しながら、時には長男がしてしまったおもらしの後処理をしながら。
眠い目を擦りながら、教科書の内容を睡眠不足の頭に叩き込んだ。

おかげで効果測定は合格、技能のほうはまだイマイチであったがへこたれずに食らいつき、どうにか仮免検定まで漕ぎ着けることができた。
みきわめのギリギリまで脱輪していたので教官も「どうする……? 検定いってみる……?」と不安そうな感じだったが、もう気合いで乗り切るしかないと思い「とりあえず受けてみます!」と勢いだけで返事をした。
もうここまできたら、なんでもやってみるしかない。

そうしていざ迎えた検定当日。
入校してから約一ヶ月。途中で子どもと共にインフルエンザにかかり、まるまる一週間教習がストップした期間もあったが、あっという間の一ヶ月であった。

「幸運を祈ってるよ。頑張って」と検定の直前に通りかかった教官が声をかけてくれた。(検定前最後の練習を担当してくれた教官であり、MTを取って旦那を轢き殺すという夢を応援してくれた方である)

ーー受験番号3番。検定車番号33番。荒れると天気予報で言われていた空は晴れていた。
風は妻に吹いている。

脱輪王、ミセス迷惑運転、謎のMTおばさん、ポールクラッシャーなど、この一ヶ月でありとあらゆる負のタイトルを総なめにしてきた妻を舐めるな。

やるしかない。

「準備ができたら発車してください」

地獄を見せてやるぜ。保険の準備はいいか。


直前まで重ねたイメージトレーニング通りに車を発進させる。
練習ではギアの入れ間違いが続いていたので、意識しながら落ち着いてギアチェンジを行っていく。
直線は3速でしっかりとスピードを出す。停止時には忘れず1速へ。
序盤は左折が何度も続くコースだったので、巻き込み確認だけは意地でも忘れないようにした。

そうしているうちに、一番苦手意識を抱いているクランクが近づいてきた。
S字型の狭路であり、直角に右折する箇所と左折する箇所が交互に配置されたコースのことである。
そして何を隠そう前日まで脱輪を繰り返した場所でもある。最後の練習でなんとなくコツを掴んだように思えたが、自信はない。
もしも途中で検定を中止させられるならば、間違いなくここだろうと思っていた。

しかしふと、妻はあることに気付く。
極度の緊張で、クラッチを操作する左足がガクガクと震えているのである。

これはしめた、と思った。

マニュアル車は、クランクとS字カーブは断続クラッチを用いて切り抜ける。右足でアクセルを少しだけ踏みつつ、左足はクラッチを小刻みに踏んだり離したりしながら進む。難しい狭路でのハンドル操作とも相まって、これがなかなか慣れないうちは大変なのだ。

しかし今はどうだ。
生まれたての子羊のように震え、勝手に高速でクラッチを踏んだり離したりしているこの左足は、いわば常に断続クラッチ状態を生み出しているのである。
つまり足は勝手に動いてくれるので、そちらに意識をとられずハンドル操作に注力できるわけだ。
これは便利である。


そして突如としてオートマチック断続クラッチマシーンと化した左足のおかげなのか、一番の鬼門であり前日まで苦戦し続けたS字クランクとカーブは、自分でも驚くほどあっさりと切り抜けられた。

それから十五分ほどコース内を教官の指示通りに走り続け、途中の踏切や坂道発進もなぜか急に今までで一番滑らかに発進した。
これは運転ド下手な妻を哀れに思ったMTの神様がみせた優しさだろうか。

そうして最後の関門である発着点への停車も、縁石から離れすぎず脱輪もせず、目印の直前できちんと停まることができた。

最後に教官からワンポイントアドバイスをもらい、手順通りに車から降りて実技試験が終了した。

きっと受かっただろうと思った。自分でも驚くほどスムーズに運転できたのだから。
少ししてからロビーの電光掲示板に合格者の番号が映し出される。
ーー合格者、3番。
やはり合格していた。

……そう、合格してしまったのだ。

妻は喜ぶよりも焦った。
だってあんなにも前日までドッカンバッコン脱輪していたのだ。数々の教官を困らせてきたのだ。まず一発で合格するなんてあり得ないと思っていた。少なくとも二回は落ちるだろうと踏んでいた。

そんなものだから、このあと技能検定に合格した者だけが受けられる学科試験の勉強をほとんどしていなかったのである。(!)

教官を地獄のドライブへと誘うつもりが逆に自分が地獄に落ちた。
妻はもう大慌てで教科書を開いて、試験が始まるまでの約10分間、血眼で勉強した。
効果測定と同じ範囲だが、インフルエンザにかかったおかげで測定を受けたのはもう二週間も前のことである。
一昨日の晩ご飯も思い出せない妻が、二週間前のことなど覚えているはずもない。
バカを舐めるな。

しかし無情にも試験時間はやってくる。
試験監督の合図とともに試験問題を睨め付け、ポイフルのように小さいツルツルの脳みそをフル活用させた。
脳内の引き出しを超高速で開けたり閉めたりしながら回答を導き出していく。

恐らく開ける引き出しを間違えた妻



「はい、それじゃお疲れ様でした。もう少ししたら結果出るからロビーで待っててね」


燃え尽きた。
ロビーで結果を待つ妻は、明日のジョーの最終回みたいになっていた。真っ白になって椅子の上で燃え尽きていた。

もう何も考えられない……もう何もしたくない……車なんてもうこりごりや……

真っ白な灰になって口元にニヒルな微笑みを浮かべながら燃え尽きること約十分。
先ほどの試験監督に肩を叩かれ、振り向く。何やら嬉しそうに笑顔を浮かべている。

「バッチリだったよ!満点だった!!」

ええ……

一度ひととおり勉強した内容とはいえ、ほとんど付け焼き刃のような知識で妻は全問正解を叩き出したのである。
これには妻自身も驚いた。しかしそれと同時にようやくホッと胸を撫で下ろすことができた。

本当に受かったのだ。まだ仮免とはいえ、これでようやく一つの大きな関門をクリアーすることができたのだ。
車のエンジンのかけ方すら分からなかった妻が、夫への殺意ひとつでここまで成長したのである。

ありがとう先生、ありがとうMTの神よ。
そしてありがとう夫。必ず殺すからな。


次回からは実際に公道を走る。安全な教習所のコースと違って危険も多く責任も重い。
引き続き気を引き締めて運転することを目指すと共に、妻から声を大にして言いたいことがある。

近隣の住民の方々は不要不急の外出を控えてほしい。
できれば今すぐに安全な場所へ逃げてほしい。
それが叶わないのなら、道路に面した家の扉や窓をガッチリ補強しておいてほしい。

絶対に突っ込みます。
アクセルとブレーキは、急に入れ替わります。


こんな奴を公道に出すな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?