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刺さらないクリエイティブ

このnoteのタイトルでいうところの「刺さらない」は2つの意味があって、

・誰にも届かない = 刺さらない
・誰も傷つけない = 刺さらない

の2つです。

サービス開発でデザイナーとかをやっていると、前者の意味でよく「〇〇の施策がユーザーに刺さった」とか「この広告のクリエイティブ、効果悪いので刺さらなかったみたい」とか言ったりします。

これは比較的一般的な使われ方かなー、と思います。

このnoteではどちらかというと後者の「誰も傷つけない」方のクリエイティブについて話をします。

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ルックバックという作品が、障害を抱えた方への表現の配慮が足りない、負のイメージを想起させるということで修正があったということで話題になりました。

この修正自体は「理不尽な災害として犯罪の表現」を「表現への理不尽な弾圧の表現」へ書き直した、という皮肉として考えると、ルックバック自体はこの修正をもってして完成、みたいな見方もできるのかと思うのですが、

クリエイターが「誰も傷つけない」ことを考えなきゃいけない世界って窮屈だなとも思ったりするわけです。

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ちょっと横道逸れるのですが、多様性とかダイバーシティという言葉が言われるようになって、多様な人種・性のあり方・考え方を受け入れてその価値を享受する考え方は、ゆっくりかもですが一般的になってきたなという実感があり、良いことだなと思うのですが

一方で、例えば企業や団体が何かメッセージを表現するときに、この観点が抜けてしまうと、容易に「刺される」というのもあったりします。

身近な例で言うと、グローバルに展開しているサービスの用意している絵文字の人物の肌の色が白だけだったりすると問題になったりするわけです。

子育てをするための情報・コミュニティを運営する会社のちょっとしたイラストに「男女のカップルの間に子供がいて手を繋いでる」というモチーフを単体で採用するのが憚られる、というのもそれです。

なぜかというと、それで傷つく、「刺される」人がいるからです。

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意図して人を傷つけることを意図しているクリエイターは別として、クリエイターは表現したいものを表現するための素材としてそのモチーフを選択しアウトプットしただけで、それをどうこう言われて、直さざるを得ない社会って辛いし不自由だなー、と思うわけです。

そして「誰も傷つけない」つまり誰も傷つけず配慮され尽くしたアウトプットが「誰にも届かない」し

つまりは「誰にも刺さらない」アウトプットになるんじゃないかって思った次第です。



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