世界で最も面白いRPG「ペルソナ」シリーズをちょっと考察
【ネタバレ注意!!!】
この記事では「ペルソナ4ゴールデン」「ペルソナ5ロイヤル」のネタバレをしているぜ!こんな面白いゲームいまだにやってない人がいたら、今すぐ1作70時間ほどプレイして自分の意志で確かめてくれ!別にそんなの構わないって言うならこの先を見てくれ!!
後、あらすじ語るの下手すぎてストーリー知ってる前提で話し進めることも許してくれ!!
ペルソナ3リロードが面白すぎて、それ以外全ての優先度が下がる
実は2月の頭にケミカル・ブラザーズのライブに行った。初めて行く音楽ライブの体験としてはもう気が狂うほど最高だったので、noteにまとめようとしたのだが、どうしてもできない事情があった。
それがペルソナのフルリメイク作品ペルソナ3リロード(P3R)で、発売されてからはそれはもうよだれを垂らしながらずーっとプレイしていた。平日は夕食後20時から始めて、ボスを倒してこれくらいならキリいいなってところでやめると深夜一時をまわっている。土日は朝10時から始めて昼4時位にご飯休憩を挟む、そしてまたキリいいなってところでやめると深夜二時になっている。その繰り返しだ。ペルソナっていう一つのでっかい欲求にチョロンと三大欲求がぶら下がっているような生活だった。
とはいえ数日前にクリアできたので感想を書いていこうと思うのだが、どうせだったらペルソナ4,5の思い出を先に語りたい。それほど自分の人生にはペルソナが深く関わっている気がする。そんな感じでペルソナ4、5の思い出とテーマの考察を書いていく。
ペルソナ4
ゲームの高校生活が面白すぎて現実があまりにもつまらないことに気づく
高校1年生の秋頃、弟と一緒に3DSを買うという契約を裏切り、勝手に中古のPSvitaを購入した。買ってすぐはメタルギアソリッド2,3のリマスターやグラビティデイズで遊んでいた。(ビータの名作ソフトってリマスター、リメイクがほとんどな気がする。)その2つが終わってちょうど気になったのが、ペルソナ4ゴールデン(P4G)だった。前情報も特に入れずになかったので、登場人物皆おしゃれメガネかけてスカしててなんかムカつくなと思いながら買ったことをよく覚えている。プレイしてすぐその思い込みが誤っていることに気づく。スタイリッシュなのはあくまでOPやUI,BGMの外面の部分であり、内にあるキャラやストーリーは普遍的で等身大の高校生活の中に基づいていた。(このギャップに気づいて認識を改めていくのがペルソナあるあるだと思う。)山間授業、海、修学旅行、スキーなどどのイベントで青春していく彼らを見ていると、このような生活なら自分でもできたかもしれないのになぜ自分を取り巻く高校生活はこんなにつまらないのかと絶望していた。(別に友達が全くいなかったわけじゃないし、当時の高校生活もすごく楽しかったけど、明らかにベクトルが違うことに気づいたんだと思う。)
初めてのペルソナシリーズだから、コミュシステムも初めて触れたことになる。RPGの中にギャルゲーが入り込んでくるのはあまりに新鮮だったし、どのコミュもいい話だから、逆にダンジョン部分がタルくね?と逆転現象が起きた。(これもペルソナあるあるっすね)
後、ペルソナ4を通じて自分のゲーム音楽の認識に革命が起こった。まちなかでも戦闘中でもボーカル入りの曲を聴かされ続けると、それがスタンダードになる。「ゲーム音楽の歴史はペルソナ以前ペルソナ以後に分かれる」と言い切ってしまえる位には同じように認識がガラッと変わる人は多かったんじゃないかな…(P4Gなら「your affection」「time to make history」が特に好きっすね…)
「真実」とは「自己」の理解とみつけたり
P4のテーマは「真実」である。じゃあ「真実」はなんなんだというと、ストーリーの流れでは殺人事件の真相やマヨナカテレビの正体だったりするが、その根底に流れるのは「自己」だと思う。
マヨナカテレビに入った登場人物は皆、無理やり自分が抑圧・無視してきた嫌な自分(シャドウ)と対峙することになる。そのシャドウも、友達への劣等感を抑えきれない、窮屈すぎる環境から逃避、求められる理想と現実の乖離、自分の中の異性性(アニマ、アニムス)…と実に様々である。ほんとに認めなくない自分だから否定することになるんだけど、そこを主人公と仲間たちが支えることで認めることができるようになる。(仲間と行うというのがポイント。自己理解を一人で完結するのは難しいのかもしれない。)そいでシャドウがペルソナになるという流れが繰り返される。
やっていた当時はそこまで考えなかったが、今ではみたくない自分と対峙するのがどれだけ難しいことか分かるから(主にキャリアデザインの経験)、よくやるよなぁ、立派だよなぁと感じる。いやでも、シャドウが勝手にあらわれ否応なく辛い事実を突きつけるのは、羨ましくもある。現実はその抑圧された・嫌な自分なんてのはかなりバラバラにされた要素が散らばっているだけで、要素を拾い集めて再構成するところから始まる気がするからだ。シャドウと対峙するならまず自分で構築しなくてはいけない。でもそれってめちゃめちゃ手間だからなんとなく避けてしまうのだと思う。
実際、このゲームで出てくる敵キャラはどいつもこいつもまともに自己をみてこなかった奴ばかりだ。目を背けた結果、別の「救い」に逃げてしまう人、ひたすら冷笑主義に走る人…足立のことを見ているとどうしても他人事に思えなくて辛くなる。行き過ぎた能力主義が仕事での挫折を経て、ニヒリズムへと変容してしまう。自分も一歩間違えていたらこうなっていた、もしくは今からでもこうなる危険性を考えてしまう。実際、今のインターネットを見ていると、足立のことを馬鹿にしながら、精神がほとんど似たようなことになっている人はけっこう多いんじゃないかなと思う。
だからこそ、嫌な自分も構成する要素の一つと肯定していき、さらに他者と生きていく選択を取ることの重要さを改めて感じる。実際、特別捜査隊のメンバーもただシャドウを受け入れて幸せになるのではなく、コミュのシナリオでは受け入れた上でどう生きていくのかを悩んで悩んで結論を出している。現実はシャドウもペルソナもいないんだから、その過程を歩んでいくのはより一層難しいんだけど、それでもやるんだよってのをペルソナ4が示しているんだと思います。
ペルソナ5
ジュブナイルRPGの天井を叩き出してしまった
ペルソナ5は大学二年ときに発売された。その数年前から色々と予告されていたが、発売されたのはP4から9年とずいぶん空いてしまった。(これはP3→P4の間が2年なのが異常すぎると思う。どうなってんだ。)そのため、ユーザーの期待は上がりまくっていたが、プレイするとそのハードルを超えるとどころか、P3を始点としたジュブナイルRPGで出来ることの天井を叩き出してしまったなというのが正直な思いだった。
シナリオ・BGMだったら、P3〜P5で三者三様の良さがあって優劣はつけづらいのだが、それ以外のシステム周り(パレス内のステルスアクション、メメントスでのドライブ、悪魔会話、総攻撃の一枚絵、コープ、超スタイリッシュなUI…)は前作品と比べ物にならないほど進化した。その突き詰め・煮詰まり具合には、流石に続編作るなら従来のカレンダー・コミュシステムを捨ててゲームを別のものへ一新しないと、この方向性で更に突き詰めるのはもう無理なのでは?思うほどだった。
テーマ「更生」ってなんぞや?
P4のテーマが「真実」なのに対して、P5は「更生」である。いや何から何への更生なんだってのが分からず、どうしても真意をつかみづらい。「ペルソナ5 更生」で調べたところ、イゴールの説明欄に「自由への更生」とはっきり書いてあった。あ~「自由」なんすね、それなら分かります。
P4のキャラが自分を見つめ直すことで問題解決するのに対して、P5のキャラ(コープ含めて)はその程度じゃどうにもならないってくらい、周りの環境が辛すぎる。(いやもう本当に…)そいで、その環境の中心にはどうしようもなく悪く、権力を振るってくる大人が必ずいる。(その大人達の悪さも現代の様々な問題を背景にしておりバリエーション豊かだ。)自分を変えたところでどうにもならねぇ!お前が変わりやがれ!と、激情を持って大人達を文字通り「改心」させることで、少しづつ世の中をよくしていく。
ただ、改心するだけでは終わらないところがこのゲームの良さである。怪盗メンバーのコープでは、権力なき環境の混沌の中で、キャラがどうやって環境を立て直していくか奮闘する様が見られる。(その中だと祐介コミュが特に好きなんだよな。あんだけ最悪な育ての親をまだ憎みきれずにいる自分とその親に対してどう折り合いつけるかを丁寧に書いていて…)その奮闘含めて、「自由への更生」なんだなと実感させられる。
VS隷属する大衆
因縁の政治家を改心させたところで、ゲームは急展開をむかえる。「お前らがどんなに頑張ったところで世の中はよくなりません、なぜならお前らが救おうとしている世の中=大衆こそ、権力に隷属することを誰よりも望んでいるからでーす」そんな冷水をぶっかけるのは上記の主張をそのまま具現化した聖杯=偽神であった。聖杯を打ち倒そうにも大衆がそれを望んでいないから、どうすることもできない。(このメメントス深部や聖杯のモチーフが明らかにパノプティコンなのだが、パノプティコンの説明があった「現代思想入門」のフーコーの章を読み直したら驚いた。権力に支配されることを望む民衆の説明がしっかり書いてあったのでここらへんの展開は、フーコーを参照しているんですかね…)
だが、三島などコープで救った人々が作ったきっかけにより大衆に反逆の意志が芽生え、偽神を打ち砕くことになる。この反逆の意志がペルソナになったのがサタナエル(≒ルシファー)であり、まさに神へ反逆し人類に自由意志を与えた存在が、その自由意志をもう一度取り返したのだ。ここで主人公の真の「自由への更生」が終わることになる。(ロイヤルの追加部分の話もしようと思ったけど、長くなるので追記できたらします…)
特別な力がなくても人を救うことはできる
ラスボスまでの展開も好きなんだが、ここからの展開は本当に好きで、このゲームが自分の中で一番好きなゲームと言える理由がそこにある。
ラスボスを倒した主人公は色々あって、もう一度冤罪の罪で逮捕されるハメになってしまう。神を倒してなお理不尽な仕打ちに反逆するのが、かつて救ったコープのメンバーだった。冤罪の証拠や署名を集めるためにあくまで現実で奔走する。p3,p4でも最終盤コミュMAXにしたキャラが勇気づけられるシーンはあって毎回感動していたが、この現実で行動を起こすところまでいくと思わなくてこのイベントをみるたびに泣いてしまう。(たまにここのイベントだけみて泣くこともしょっちゅうある。)特に、主人公より年上のキャラが周りを説得するシーンをみていると、ペルソナなんていう特別な力がなくても地道な行動一つで誰かを救えるをアトラスの熱いメッセージに胸が打たれる…(三島の署名も好きっす)ペルソナ5が好きな理由がここにつまっている。「特別な力がなくても人は救える」という当たり前な事実を当たり前と思わずに自分もそうしていきたい。
最後に
ペルソナ3リメイクの感想の前座として、書くつもりがかなり時間がかかってしまった。これからリメイクの感想に取り掛かろうともまた時間がかかってしまい、新鮮さがどんどん失われていく…でも、今回の記事それだけペルソナシリーズが好きなんだなって気づけたのはよかった。
今はP4Uをプレイ中、ペルソナシリーズの沼に絡め取られるのはまだまだ続きそう。
ここまで読んでくれてありがとう。感想文って本当に書くのが難しい…でも、この文章は他のペルソナ好きに届けば書いたかいがありますね…
参考文献
こっちのほうが何百倍も詳しく解説しております。