皆丸い心で 私の感じる親心

ふと、教祖の皆丸い心で、の御逸話をどう伝えればいいか教えてください、と相談を受けました。

過去によく言っていた事を覚えていてくれたようです。

過去と今では感じかたも変わりますが、あの言葉も親心なのではないか、と年限を重ねて感じられる事があるのも、この教えのいいところですね◎

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この逸話は、教祖ご在世当時のお話です。子どもの目の病をたすけていただいた親が、子どもと一緒に教祖の元へお礼詣りに行ったそうです。

教祖の前にうかがった両親は、おそれ多さに頭も上げられないほど恐縮していました。しかし子どもは8歳ぐらいであったので、あたりを見回して見ると、教祖の傍らに置いてあった葡萄が目に付きました。じっと見つめていると、教祖がそれを手にとって

「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」

と仰せになって子どもに下されたそうです。

ここからは私が感じた親心です。

■少年に聞かせてくださった例え話

この逸話は、8歳の少年に教祖がお聞かせくださった例え話です。8歳の時は褒められる事も怒られる事も教えられる事は、全部身に入ってきて素直に信じて生きてきたように思います。あれは良い、これは悪い、これはこう、それはそれ、といった具合に覚えていく時期だと思います。

そんな少年にも分かりやすく、葡萄というモノを見せ、丸い心というやさしい例えで教えて下さいました。これはどんな教理に当てはめて考えればいいのだろう、と気張る必要もないと思うのです。

8歳の自分がそう言われたと想像してみてください。へぇ~そうなんだぁ!丸い心かぁ!丸い心ってどんなの?みたいな感じになってもおかしくありませんね。それぐらい抽象的でも、素直に受け止める心で捉えるという、その事が大切なんじゃないでしょうか。

まずは素直に受け止める事で見えることがあると思います。

■丸い心とは

丸い心。そもそも丸いとはどんなイメージでしょうか。私は、やわらかそう、やさしそう、受けとめてくれそう、というイメージがあります。
はたまた、丸以外の形はどんなイメージでしょうか。三角や四角、星形とかもありますね。それぞれに湧くイメージがあると思いますが、私は全体的にどこか角張っているイメージがあります。2つとも単なるイメージです。

丸い心と言っても、説明はちょっと難しいかもしれません。まずは丸いってどんなイメージか想像してみる、そうじゃない形もどんなイメージか想像してみるといいと思います。そのなかで自分なりのイメージをしてみてください。

面白いのが、三角や四角のイメージは、皆のイメージがバラバラになりやすいのです。例えば三角は頭のいいイメージだと言う人もいれば、びみょーなイメージだと言う人もいました。しかし丸は、なんとなーく近いイメージに寄っていきます。個人調べでは「やさしい」がほぼほぼ出てきます。(笑)皆が同じようなイメージが出来る形、それが丸なのも面白いなと思います。

私なりには、やさしく受け止めてくれる、思いやりの形が丸い心なのかなぁと思います。

■この道は、先永う楽しんで通る道や程に

丸い心にフォーカスが当たるので、ここまで普段から覚えている人はそんなに多くはないと思います。実際過去よりも今のほうが、ここに親心があるのではないかと思うのです。ここからは特に私の悟りです。

まだまだ教えの理解も少ない少年です。現代の私たちでさえ、まだまだ理解していない事も多いと思います。知らないだけの事もあるでしょう。

教祖は少年に対して、戒めるというよりも、これから段々と丸い心を育むんやでと、先永く成長を期待も込めて見守ってくださるように、語りかけられたように感じました。今がどうというより、これから先の成長を楽しんで通る道だよ、と教えてくださったように思います。

■おわりに

まだまだ素直な8歳の少年にも、なんとなくイメージしやすいように教えてくださり、丸い心で、今だけでなく先永く楽しんで通る道なんだよと教えてくださった、そのものが丸い心の体現かもしれませんね。

丸い心になっているかと言われれば、常には難しいし、まだ丸い心を納めたわけでもありません。

たからこそ、この道を、先永く楽しんで通らせていただきたいと思います。

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