学校という場でこそ生まれる「学び」を求めて――生徒たちと向き合えない春に(金子奨)

金子 奨(公立高校教師)

ないないづくしの新学期

「あのう、スマホもパソコンもないんですけど、どうしたらいいですか?」
 辛うじて実施できた入学式後のホームルーム教室。担任が「今後の動向については学校のホームページをこまめにチェックするように」と呼びかけたところ、男子生徒が不安げに話しかけてきた。
「そうか。じゃ、伝えるべきことがあれば、担任からその都度連絡してもらうね」
「ありがとうございます」
「で、どうしたら連絡がつくのかな?」
「提出した書類に書いてある母親のスマホにお願いします」
 ぼくが4月から勤務することになった高校は、単位制の定時制課程だ。さまざまな事情や背景があって、全日制高校を選べない/選ばない子たちが入学してくる。とりわけ不登校の経験者が少なくなく、社会的に孤立しやすい立ち位置にいる。

 入学式はきわめて簡素に行われた。保護者と在校生の参加はなく、校長式辞も来賓あいさつも祝電披露もない。担任による一人ひとりの「呼名」と校長による「入学許可」さえあれば、入学式は成り立つのだ。
 ただ、子どもたちの社会的身分はなんとか確保できても、翌9日からゴールデンウィーク明けまでの休校延長によって、安全で安心できる社会的な居場所を保障することはできない。教科書も渡せていない。各教科の課題もできていない。もちろん、図書館も公民館も開いてない。すべてがないないづくしだ。
 その後、管理職から分散登校の実施が告げられ、各学年でその形態と方法が模索される。
 最初は体育館に2クラスの生徒を集め、いろいろな説明を…という案が練られたけれども、「3密」に近くなるというので廃案。次は「ウォーク・スルー」方式で袋詰めにした資料を手渡す方法が検討される。教室棟から体育館への通路には屋根がある。その下でなら一方通行での手渡しもできる。バス通学の生徒を配慮して登校時間が設定され、配布するものの選定が行われる。若い教師が中心となりてきぱきと実施案がまとめられていく。そして学年会で承認された案は、すぐに学校のホームページにアップされる。必要な生徒には、担任が電話連絡をはじめた。

「でも、私物を持ち帰る必要のある上級生はともかく、課題などを渡すだけの新入生を登校させる必然性はないんじゃないの?」

 郵送でいいのだ。そういう声は当初からあった。ただ、郵送費の捻出が難しい。レターパックで全員に送るのは無理だ。定形外で、できるだけ重量を減らすしかない。若手教師の減量のための涙ぐましい努力がはじまる。

「これで糊付けしたら重量オーバーするんじゃないの?」

 返信用封筒まで同封して、休校後早々と課題などを郵送した学校もあるというのに、同じ公立高校の教師たちが、生徒に必要な配布物を数グラム単位で精選しなければならないのはなぜ? この落差はいったいなに?

叶わなかった学びの評価

 2月27日の全国一律・一斉休校要請以降、入試業務のかたわらで、ぼくは学年末考査の評価に追われていた。
 担当科目は日本史。考査は、資料集に掲載されている「寺子屋開業数」を示したグラフと江戸時代後期の「社会の変容」の関連を論述するというものだ。複数の歴史学上の概念を用いながら、当時の大人が子どもたちに学びの場を確保しようとしていた理由を考えてほしかったのだ。
 考査中は教科書、資料集、ノート、その他自分が作成したメモ類の持ち込みは可。ただし、電子辞書とスマホの使用は不可。ほんとうは日頃の授業と同じように、周囲のクラスメートとの相談をOKにして、「協働する力」も評価したいのだけれども、まだその方法は見いだせていない。
 問題意識をもってグラフを読み取り、複数の概念を関連させながら理解し、それらを文脈化して意味づけを行う。そして、自分の考えを構造化された文章で読み手に表現する――論述の際には、「たとえば」「と比べて」「しかし」「つまり」という接続語などを使用することも条件にしている。これが生徒に求める力だ。
 そうした力を培うために日々の授業では、教科書を音読してグループごとに問いを立て、解明のための探究を図書館で行い、その結果をホワイトボード上で文章化してプレゼンテーションするという、一連の「協働的な学びあい」を1年間継続してきた。


 今回の考査は、それまでの「指導」が生徒をどのように変様させたのかを「評価」するためのものだった。だから、「評価」対象は生徒であると同時に、「指導」者であるぼく自身でもある。今回はそのために「ICE」という方略によるルーブリック(観点別の評価表)を作成して、生徒の論述をていねいに読み解き、返却時にどのようなフィードバック/フォワードをしようかとわくわくしながら評価にいそしんでいたのだ*1。
 でも、それが叶うことはなく、さよならをいう機会もなく、異動することとなった。

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高校教育に求められる転換と、足もとの現実

 休校措置が続き、子どもの学びをどのようにして保障するのか、全く見通しが立っていない。もし子どもたちが、今ある世界に疑問を持ち、問いを立て、さまざまなツールや資源を活用して探究し、仲間と分かちあいながら解明/解決していく力を身につけていたとしたら、若者は身体的な距離を取りつつも、社会的孤立に脅かされることなく、主体的に学びを進めることができるかもしれない。
 しかし、文部科学省が旗振る「主体的・対話的で深い学び」から程遠いところに学校現場は、とりわけ高校はある。

「教え」から「学び」への転換は1990年代初頭に提起され、世紀の変わり目ごろからは各校種で実践化への糸口が見いだされ、徐々に授業での取り組みの蓄積と交流も厚くなった*2。子どもと教師の「学び」を核とした学校改革の取り組みも進んできてはいる*3。今回の学習指導要領の改訂は、そうした動きをさらに促す意図も含まれているだろう。
 ただ、その改訂の照準が、19世紀以来の一斉講義式授業から脱け出さ/出せない高校教員に向けられているとささやかれるほどに、後期中等教育の現場が根強い抵抗を示していることも確かなのだ――大学入学共通テストをめぐる紛糾にも、それが影を落としているように思う。

 子どもたちの学びあいを保障するためには、教師の幅広い教養と専門的で創造/想像的な教材研究が欠かせない。子どもたちの疑問を即興的に判断して文脈化し、他領域との複雑な関連を示唆して学びをひろげ、世界を深化・更新させる足場をつくるには、古びたノートでは不十分なのであり、教師自身がたえず知的な探究者でありつづけることが要請される。
「調理済みのハンバーガーを再加熱するだけに訓練された人が、料理長になることはない」*4。教職はけっしてイージーワークではないのだ。

 しかし――残念なことに――教員の机上には『実況中継××』といった大手予備校講師の講義録が並び、教科領域にかんする専門書を紐解いていると「お勉強ですか?」と揶揄する風潮もある。一問一答式の共通テストによって教師の自律的な裁量に制約を加え、生徒と教師を過度に競争的な環境に追い込もうとする流れも強まっている――ゼロ・トレランスや「学校スタンダード」の流行もその一環だろう。
 教育産業による侵蝕も加速度を増している。企業が作成した「手帳」を購入させて、生徒のスケジュールと勉強時間の管理とチェックを行うことや、基礎学力とともに学習習慣などを評価するテストの提供も受けいれている。授業を潰して行われる模擬試験が毎月のように用意され、膨大なデータを私企業に与えている――安くはない受験料を保護者に負担させてまで。「振り返り」という時間も用意されているけれども、そこで強調されるのは「勉強時間の確保」に過ぎない。

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コロナ危機は「教師のしごと」を省察する契機になるか

 今回の休校措置で、動画配信による講義などが提案され、教育産業も参入する事態になっている。しかし、「デジタル化、自動化、およびアウトソーシングするのに最も適したスキル」は、伝達型授業と一問一答式試験に典型的にみられる、「定型的な認知スキル、すなわち最も教えやすく測定しやすいスキル」*5だということを見落としてはならない。したがってそれは、コロナ禍が象徴的に示しているような、今後われわれが次々と直面するであろう未知の諸課題に、多様なひとびとがたがいに働きかけあいつつ、見通しや解決策を編みだしていく力を育むものにはなりにくいだろう。
 逆に危惧されるのは、動画による学習保障という名のもとで、社会的に脆弱な立場にある子どもたちが見棄てられ、私企業による公教育の蚕食がさらに広く進行することだ。学校教育は、それでなくともすでに十分に公共的使命を忘れ去るよう圧力を加えられている。「教師」は社会と子どもに対するレスポンシビリティ/応答責任ではなく、個別化された私的要求への説明責任/アカウンタビリティーに汲々とする「教員」へと変質して/させられてしまっているのだ。

 子どもたちとともにいることのできない教師は、陸に上がった河童も同然である。在宅勤務のまま、為す術がない状況はつづくだろう。結果として教師へのバッシングも今後強まると思われる。
 過去、1クラスあたりの生徒数の早急な減少、ICT導入などの教育環境の現代化、子どもをめぐる社会的なセイフティ・ネットの確保、それらを実現するための公教育支出の大幅な引き上げを求める教師の声が、聴きとどけられることはなかった。それは、地域の保健所の統廃合や病院のベッド数の抑制への警鐘が、一貫して無視されつづけてきたことと同様である。教育、福祉、医療の現在の危機は、長期間にわたるこれまでの政策の結果にすぎない。

 今回のコロナ禍を機に、学校教育と教師の公共的な使命について――日本国憲法第15条がいまも謳い、改定前の教育基本法第6条が明記していた「全体の奉仕者」の意味について――より多くの教師が省察し、その重要性を社会に向けて発信しはじめることを望んでやまない。(2020年4月28日)

(注)
1. 「ICE」は、概念ideasの理解、諸概念の関連性connectionsの把握、その意味づけや拡張/発展extensionsが、どれくらいできているかを観点別の評価表として可視化し、生徒にフィードバック/フォワードする手法のひとつである。生徒と教師はこれによって、学習の進め方についての具体的な指針/イメージを得ることができる。F・ヤング、J・ウィルソン『「主体的学び」につなげる評価と学習方法――カナダで実践されるICEモデル』(東信堂、2013年)を参照。
2. 金子奨『学びをつむぐ――〈協働〉が育む教室の絆』(大月書店、2008年)。
3. 金子奨・高井良健一・木村優編著『「協働の学び」が変えた学校――新座高校 学校改革の10年』(大月書店、2018年)。
4. A・シュライヒャー『教育のワールドクラス』(明石書店、2019年)。
5. 同前。

(かねこ すすむ)埼玉県公立高校教諭。専門は社会科。1996年より『ひと』『ひとネットワーク』(太郎次郎社)編集委員。2003年度、派遣研究生として東京大学教育学部に学ぶ。著書に『学びをつむぐ――〈協働〉が育む教室の絆』(大月書店)、共編著に『「協働の学び」が変えた学校――新座高校 学校改革の10年』(大月書店)。


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