戦史叢書での南京事件の記述

戦史叢書第086巻「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで 」(防衛庁防衛研修所戦史編纂室 昭和50年7月25日発行)436ー438頁
注 南京事件について
 南京は外国権益が多く、また多数の非戦闘員や住民がいる関係上、方面軍司令官は、とくに軍風紀を厳守するよう指導していたが、遺憾ながら同攻略戦において略奪、婦女暴行、放火等の事がひん発した。 これに対し軍は法に照らし厳重な処分をした。
 ところが当時同地にとどまっていた諸外国特派員が生々しい戦禍の状況を世界に報道し喧伝した。たとえば英国マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・Jティンバーレンが、昭和十三年七月「中国における日本軍の残虐行為」を編集発行し、米国のジャーナリスト、エドガー・スノウはその著「アジアの戦争」(昭和十六年発行)のなかでこれを紹介し「軍国主義日本の狂暴」を全世界の人々に印象づけようとした。そのなかで最強調しているのは、日本軍が何十万という捕虜や住民を虐殺したということである。
 これが事件として取り上げられたのは、終戦後の極東国際軍事裁判及び南京の特別軍事裁判であった。南京の裁判では処刑そのものを必要とする政略的理由から、約三〇万軍民が虐殺されたとして、谷壽夫中将以下四人の軍人が処刑された。東京の裁判では、南京占領から一ヵ月の間に男女子供を含む非戦闘員一・二万、掃蕩戦の犠牲者二万、捕虜三万以上、計六・二万以上が殺害され、さらに近郊に避難していた市民五・七万以上が餓死あるいは殺されたという判決を下した。
 しかし、その証拠を些細に検討すると、これらの数字は全く信じられない。
 一方、当時の日本軍は、南京付近防衛の中国軍を約一〇万と判断し、昭和十二年十二月十八日「敵の遺棄屍体は八、九万を下らず、 捕虜数千に達す」と発表したが、翌年一月「敵の損害(死傷者)は約八万、うち遺棄屍体は約五万三、八七四」と算定した。しかし、日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい。
 しかし、これが事件として取り上げられたのは、若干の事実があったからであり、これが誤解、曲解され、さらに誇大宣伝されたためであろう。 以下、諸資料を総合すると次のように考えられる。
 作戦地域は、中国防衛軍の手によって「空室清野」戦術がとられたため、一般住民の被害は大であったろう。
 また南京攻略戦は完全包囲殲滅戦であったから、戦闘行動による中国軍の損害の多かったのは当然である。
 問題は、(一) 占領直後の敗残兵掃戦において、多数の非戦闘員や住民が巻き添えをくらって死亡したこと、とくに中国軍後退部隊と避難民が混淆した南京北方及び西方地区で大であった。ただし非武装住民であっても、軍に協力し、あるいは遊撃戦に関与して対行動をとったものは戦闘員と見なさざるをえない。 (二) 南京の人口は、平時約一○○万、南京攻略戦開始当初約三〇万、そのうち数万が作戦間に退避し、日本軍占領時には、そのうちの二十数万がおおむね難民区に集まっていた。しかし南京陥落直後は完全無政府状態で混乱を極めていた。 (日高信六郎参事官談)
ところが敗残兵の多くのものは、武器を捨てるか陰置して住民に変装し、いわゆる便衣隊となって潜伏した。この便衣隊を住民のなかから摘出検挙することは非常に困難であるが、この際にも無抵抗の住民に若干の犠牲があったと考えられる。(三) 投降者を捕虜と認めず、従って捕虜として取り扱われぬことが少なくなかった。日本軍の攻撃部隊は、中国軍側に比べ兵力が僅少であったので、戦闘行動中に投降する者があっても捕虜として監視する兵力がなく、足手まといとなるばかりであり、偽装降の前例も多かったことや、真に中国兵が戦意を喪失しているのかどうかの判別が困難であったこと、日本兵の恐怖心や敵愾心が強く、殺すか殺されるかという切迫した状況下では冷静な判断ができ難いこと、それに捕虜として遇するための設備や補給能力がなかったためである。これらは作戦が猛烈な追撃戦に次ぐ激烈な堅陣攻撃及び市街戦であった特性上からくるものであり、日本軍の第一線部隊のみを責めることはできない。(四) 南京占領後の捕虜の処遇も十分とは言いがたい。これは激戦直後の将兵の敵愾心、捕虜収容設備の不備などによるものであるが、 捕虜殺害の数はさほど大ではないようである。 第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させた。
ところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。なお第十六師団においては、数千名の捕虜を陸軍刑務所跡に収容している。
 以上、各項目について具体的に正確な数字を挙げることは不可能であるが、南京付近の死体は戦闘行動の結果によるものが大部であり、これをもって計画的組織的な「虐殺」とは言いがたい。しかしたとえ少数であったとしても無辜の住民が殺傷され、捕虜の処遇に適切を欠いたことは遺憾である。
 当時、外務省東亜局長であった「石射猪太郎回想録」によれば、昭和十二年十二月下旬から翌年一月にかけて、現地総領事から日本軍の不軍紀に関する報告があり、石射局長は陸海外三省局長会議で陸軍側の反省を求め、廣田外相も杉山陸相に警告したと述べている。陸軍では、一月七日、参謀総長が出征軍隊の軍紀風紀の薬粛について異例の「訓示」を発し、陸軍大臣も一〜二月の間、軍紀風紀振作対策を講じた。

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