思考と衝動

最近、授業の影響かわからないが、「私ってこういう人間なのかも」と、自分をいろんな「形」に当てはめてみることが多い。 

結局自分が何なのかはわからないし、たとえわかったとしてもその形にはハマらないような行動をしようとするのが私だ、と自覚はしている。

でも、自分についての「発見」があると、なんというか少しだけ大人になったような気がするし、冷静でいられる気がする。

 その「形」のうちのひとつ、「反射的に心のダメージを最小化しようとする」という癖を見つけた。

 他人の心は見えないため比較はできないが、もともと私は極めてデリケートな心を持っていると思う。

「もともと」というのは、その繊細な心を、強度のポジティブと自信と大雑把が大幅にカバーをしているため、周りからは決してそんな様に見えないだろう、というニュアンス。

 その癖は、国際ボランティアのメンバーに選んでもらった時に見つけた。

選考発表前、私の頭の中では、猛スピードで数々の「実在しない」場面が映画のフィルムみたく流れていた。

落ちたら自分はどのくらい落ち込むかな、
落ちても母に当たらないようにしよう、
重たく胸に来そうだ、
なぜ私を選ばなかったのか理由を聞こう、
落ちても同じ日程で自費で引率すればいいのか、
受かったらバイト先の上司にも言おう、
「今日いいことがあったんですよ〜」って言って話始めよう、
もし本当にそこに行けたらすんごい経験になるに違いない、
パスポートを用意しないと、
空港までは送ってもらおう、
たっくさんお土産話を持って帰ろう、
すごく暑いだろうから日焼け止めを塗らないと、

そこで感じたことを文章にしてブログにあげよう

 まだ行ってないのに、行った時(後まで)のことを考えたり、
まだ発表されてないのに、選考に落ちたことを伝える練習をしたり。

 自分ではどうすることもできない未来の出来事が待っている時、
「こんなこともあるかもしれないよ」と、想像できる限りの色々なパターンを自分に教えておく。

そうすることで、実際物事が起きても「予想の範疇」として処理できて、
心のダメージに保険をかけられる。

 

思考が止まらない自分が、何かと向き合えていないような気がして嫌になった私は、なぜか、オードリーのコントをYouTubeで無心で観た。

 衝動的に、本能で感じるものを、こういう複雑な思考が邪魔をしてはいけないと思う。

「これをやりたい」と思う衝動を、「これをやらないと」という思考が邪魔しないように、

戦う強さが欲しいと思った金曜日だった。

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