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手紙

初老の男のもとに、一通の手紙が届いた。差出人の名は知らない。几帳面なくらい丁寧な筆跡で、もしかしたら印刷ではないかと、ついつい斜めから紙を透かして見ているくらいだった。

「めずらしいわね、手紙が届くなんて」と妻が料理の手を休めて言った。

だが、封を切らずに昼食後のテーブルに放っておいた。そもそもこの星に移住してから、彼はほとんど人と会う機会がなかった。わざわざ手紙のやりとりをするほど親しい者もおらず、この一帯に定住する移住者もほとんどいなかった。農作業での協力者たちと週一回会う程度だった。そのうち手紙のことはすっかり忘れていた。

午後の農耕地に出ると、相変わらずいつものように静かだった。鳴く鳥もいない。飛び交う虫もいない。町の喧騒もない。風の起こす葉擦れの音だけが異様に大きく響いていた。畑は町一つが入りきるくらい大きい。これだけ広いと、移住当初の環境への適応も早かった。

トラクターのエンジンを止め、携帯端末に電子メールで届いた依頼を見つけた。さっそく新たな種子のオーダーをかけた。じきにドローンで届くだろう。地球に居る息子夫婦からは、経済状況の悪化の報せが届いていた。相場に焦って下手に動くなと返信した。さらに複数のジャンクメールを削除して、あと一通の差出人の名を見て釘づけになった。さっき届いた手紙の差出人と同じ名前だった。

件名は「ありがとう」。本文は「あなたの農場の果汁から素晴らしいものを得ました。そしてあなたは提供されました。その勇気は私たちの心を激しくぶるぶると震わせます。そういうわけで、このたびはお手紙をお送りしました。あなたはこの土地を蘇らせた。それでは、お元気で。さようなら」だった。文法的に翻訳調だったため、読んでいると文書のなかで単語が行き交った。

しばらく頭がぼうっとした。

作業から戻ると、初老の男は例の手紙を探した。だが、手紙はテーブルから消えていた。妻に尋ねてみたが、首を傾げるばかりだった。手紙というものは届いたけれど、その存在は綿あめのごとく脆いといわんばかりだった。とうとう諦めて探すのをやめてしまった。探して俯きすぎて痛くなった首を右手で押さえつつ、背をまっすぐ伸ばした。驚いたことに、壁面に手紙がピンで留めてあるのが目に入った。我が家では見たことのない規格のピンだった。

文面は先程のメールで見た内容と同じだった。「なんだ」と力が抜けた。封筒の宛名と同じく几帳面な字体で、何かをなぞったかのように規則正しく書かれていた。

ところが、手紙にはひとつだけ電子メールにはない、紙独特のものがあった。最後のサインのところに丁寧に拇印が押されていたのである。まるで鳥の指のような細い三本指の形に、鮮やかな朱肉を使って押されていた。

それは彼らの感謝の印に違いないと、初老の男は素直に信じた。

彼らがいるいないに関わらず、初老の男はすべてを受け入れることにした。このことは妻にも黙っていた。疑うことも問い合わせることも一切せず、彼はゆっくりと晩年を迎えた。



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