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欲望のホログラフィが幻影に変わるまで

羊のことは依頼主から一言も話はなかった。少なくとも覚えている限りは。

僕たちは奇妙な信号を傍受することになった。研究棟からとんでもなくヤバい羊が、想像を絶する方法で逃げ出したという、想定外のハプニングについての緊急放送だった。

嵐から一週間経っても続く砂まじりの雨が、廃屋に身をひそめる僕たちを悩ませた。雨漏りがするたびに、砂が服の中に這い込んでくる。それでも僕たちは研究棟周辺の異変から、目を離すことができなくなった。

羊の逃亡と関連があるのだろうか?ゼンマイ状の巨大な植物が三本、研究棟を囲むように伸びてきた。さっきまでこのようなものは存在しなかった。ゼンマイは伸び切ると折り畳まれた先端を広げて、巨大なシダの葉が現われた。人が数十人も乗れるだけの広いスペースがあった。

羊の逃亡の信号から、わずか三十分しか経っていないのに。

依頼主からの要望は、研究棟で働くK氏の素行調査だった。妻子のある身でありながら不倫をしているようなので調べて欲しい、というK氏の妻の親族からのありきたりな調査だった。

僕たちはK氏の持ち物に仕掛けた発信器の電波を探し続けた。なせなら、緊急放送後、電波の受信状況が極めて不安定になっていた。おそらく、非常事態を察知されることを怖れて、研究所が妨害電波を発信しているのだと思われた。

なんてこった。

*

そこへ部下から絶望的な連絡が入った。「K氏には妻も子もいない」。つまり、依頼主は嘘をついていたことになる。

この廃屋を手配したのも依頼主だった。この場所が逢瀬の場所だと伝えられていたのだ。どうやら、僕たちはまんまとハメられた可能性が出てきた。ここは急いで撤退するのが最善だった。

急いで荷物をまとめ始めたが、もう遅かった。

廃屋の扉がノックもなく破壊され、銃を持って突入する部隊が僕たちを捕獲した。たかが探偵を逮捕するにしては、あまりにも大袈裟だった。僕たちはすぐに拘束衣を着せられ、猿轡をはめられ、ジープに乗せられた。

ジープの窓からは、さっきよりも巨大に葉を成長させたシダの姿が、真下から眺めることができた。壮観な眺めだった。その成長スピードは尋常ではなく、どこまで続くのかもわからない。シダの根元では、研究員たちが幹を燃やすために火炎放射器が火を吹いていたが、びくともしなさそうだった。

僕たちの逮捕容疑は、研究用の羊を営利目的で逃亡させて、植物のシダへの変身誘発を間接的かつ直接的にもたらしたことだった。そしてまるで事前に周到に用意されていたかのように、逮捕翌日には臨時裁判が開かれた。その裁判の実体は無いに等しかった。僕たちは即座に結審となり、収容所送りになった。すべて予想通りだった。

初期火星の研究所で多発するこうした冤罪事件は、僕たち以降にもあとを絶たなかった。収容所は似たような冤罪だと思しき収監者で溢れ返った。ほとんどが諜報関連者や報道関係者だった。そのままプレスセンターが設立できるほどのブレーンが集まってきた。だが、どのメンバーももう疲れ切っていた。タイプを打ちまくっていた腕も、記事を読み漁った記憶も、すっかり麻痺してしまった。

*

長い年月が経って、世論が正常な判断を少しずつ取り戻し、僕たちが釈放されたとき、火星はすっかり変わっていた。理想が理想でなくなり、疑念が現実を支えていた。あらゆる研究所は国家権力の傘下から手放されていた。僕たちの微かな怒りの矛先は、きれいさっぱり消え去っていた。

僕たちが裏切られ失ったものは、最初から存在しないものばかりだった。依頼対象も、そして僕たちの被った罪も、突き詰めてしまえば仮想現実と変わりがなかった。それなのに半生以上の年月のあいだ、僕たちを拘束し、きつく締め上げた。

だから、どれだけこの惑星が様変わりしようと、僕たちはもう驚きもしない。

火星はいつまでも現実感に乏しくて、かつての暴利を貪った私利私欲だけがホログラフィのように未だに目に鮮明に映る。僕たちがさらに年老いて居なくなる頃には、こんなくだらない幻影も消え去り、透明で純粋に青い火星となっていることを願うばかりである。

最近、ようやく一冊の本を読む気力が戻ってきた。


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