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待つ

テーブルの上のコーヒーはまだ冷めずにあった。それは老婆が見つけた時のことだった。

湯気がほのかに立っていて、懐かしい香りが漂うキッチンに、淡い夕日の影が落ちていた。うっかりしていたのか、すぐ戻るつもりだったのか、窓は開け放したままだった。たぶん、あの人は近所に出掛けたようね。そう言って彼女は溜息をついた。

きっと、あの人はすぐに戻って来るわ。

老婆の勘はいつも外れた。右と思えば左に、上と思えば下に、予想はことごとく外れてしまう。外れるからといって逆を選択すると、それも外れる始末だった。

案の定、夫はなかなか帰ってこなかった。コーヒーはとっくに老婆が頂いた。

テーブルの上には今朝の新聞が広げられたまま置かれていた。火星の株価、火星の時事問題、火星の天災から人災にいたるまで、種々雑多な話題が一面に詰まっていた。老婆はちらと一瞥したまま、いつものように中身を読もうとはしなかった。

リビングのテレビは何年も壊れたままだった。修理することもなく、いたるところ細かな砂が積もっていた。彼女はそんなことを気にすることもない。新聞もテレビも、外からやって来る情報は、彼女にとって、なくても困らないものだった。

老婆は静かな睡魔に襲われた。あのコーヒーでは効かないくらい、疲れているんだわ、と彼女は身体の調子に耳を澄ました。歳をとると本当に身体が軋むのよ、と彼女はそれが最近の自慢だった。

あの人はどこへ行ったのかしら?と彼女は窓際の椅子に腰かけた。老夫婦の信頼関係を、火星人たちが蝕んでいるなんて、嘘っぱち。目を閉じた老婆は、花の蜜を吸う幸福な夢をかすかに見た。

きっと、私は勘違いしているだけだし、あの人もそうなんだろうと思った。日が落ちると、物陰から私を窺っている四つの目の輝きに気づいた。けれども、彼女にはもう動く気力は残っていなくて、「お帰り」と口にするのがやっとだった。二つの目はあの人で、もう二つの目は老婆にとてもそっくりだった。



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