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火星天国

「火星天国」というどうしようもない名前のカフェが、最近オープンした。勤め先のコンビニの真ん前だった。開店してから一週間は経過しただろうか。

「火星天国」は、昼はいつも風景に溶け込んで、存在を隠すようにひっそりしていた。夜になると看板のネオンサインだけが、静かに目立って光っていた。店の主人の姿は一度も見かけたことはなく、流行っていないのか客の出入りする姿も見たこともない。駐車場のない飲食店は、この広すぎる火星で商売するには不利な条件だった。

来る日も来る日も、俺は「火星天国」の看板を見て働いた。コンビニのカウンターの真正面に堂々と見えるのだから、どうしようもない。火星中の誰よりも「火星天国」に近い人間だと自負して、そのたびがっかりした。

夜のコンビニのガラスから見える火星の夜空は、いつも闇のように真っ暗だ。店内の電気を全部消せば、暗闇でいつも目にする満点の星空が展開するはずだが、そんな勝手なことをすると店長が怒るだろう。

唯一、「火星天国」の前世紀風な看板のネオンサインは、俺の退屈からの不満を毎晩、視覚的に満足させた。

*

ある日、無性に気が立っていた俺は、八つ当たりに偵察でもしてやろうかと思い立ち、真夜中の休憩時間に「火星天国」のドアを押してみた。

目の回るようなコンビニ勤めでクタクタだった俺は、地球のミルクの味のするホットコーヒーを無性に求めていた。少なくともコンビニで販売しているコーヒーは、漏斗で流し込まれても飲みたくない代物だった。

店内は無人だった。レジにも店の奥にも人影がなかった。しかも店内は蠟燭ほどの光量の灯りしかなく、非常に薄暗かった。それでも営業時間内には違いない。ネオンサインも瞬いていたし、店先の看板に営業中と書かれていた。暗くても読める案内板があちこちに設置されていた。

だが、待てども待てども、店内からは誰も出てこなかった。「何が天国だ」と俺は独りぼやいた。仕方なく、しばらく暖まってから店を出るつもりで、窓脇のテーブル席に腰かけた。

窓から見えるコンビニは、煌々と輝いていた。その割には客が少ない。夜間に開店するメリットがないかもしれないが、その判断の権限は本部にあった。俺たちにはどうにもできない。

これが現実というものだ。

せっかく渡って来た火星にも、最近は新鮮味を感じなくなっていた。俺はこの惑星を火星だと考えることすら難しくなっていた。これってアイデンティティの喪失ってやつだろうか?ただの倦怠期か?

待つのに疲れて、席を立とうと前のめりになった時、俺はあるボタンを見つけた。「ご入用の時はボタンを押してください」。

天国は呼び出さないと誰も出てこない場所なんだな、と俺は考えた。すごく効率的にできている。

きっと、このボタンは本当の現実を見せてくれるかもしれない。

前のめりのままの姿勢でふと窓を仰ぐと、満点の星空が広がっていた。どこもかしこも星屑だらけだった。ここなんだよ、と俺は思った。忘れていた希望が湧き出すのを、俺は指先で感じていた。


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