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孤独な天使との邂逅

「あれは天使だったの」と娘は言い張った。

静かな夕暮れがいつものように訪れ、静かな常夜灯の浮き上がる頃、私はベランダにいる娘から「天使を見たの」と告げられた。どうして彼女が日の暮れるベランダに出ていたのかもわからなかったが、それ以上に天使という概念をしっかり知っていることに驚いた。彼女はまだ三歳だった。

これと似た話を、私は聞いたことはある。

だから、「天使はどんな姿をしていたの?」と私は訊いてみた。

噂では皆、口をそろえて蛸の姿をイメージさせることを言ったり描いたりする。不思議なことに、子どもたちは誰ひとり、蛸そっくりだと表現しない。蛸という表現は大人たちが後から当て嵌めただけだ。子どもたちが話したり描いたりするのは、大人たちに蛸を連想させてしまう、別の何ものかだった。

娘の描く天使には、装飾を一切排した輪郭だけからなる、よれよれした布切れが複数枚、縦に長く伸びていた。娘のクレヨンの描く、火星の赤味の濃い夕空のリアルさに、私は感心した。その上を白と黄色で漂うのが、彼女の言う「天使」だった。

私には、どう見ても空飛ぶ蛸に見える。

「天使がね」と娘は説明してくれた。私はその先に出てくる言葉を大体知っている。「わたしに『あなたは苦しくないの?』って心配してくるの。『どうして?』とわたしが聞き返すと、天使は『わたしたちはずっと空に浮かんで、孤独だったから』そして『急にたくさんのお客さんが現われたから』と言うの。わたしはそのことを知っているから『そうね、あなたと同じ気持ちだわ』と答えると、天使はわたしをじっと見て笑った。そうしているとすごく安心して、わたしも落ち着いたし、天使も穏やかな表情になって空に昇っていった。そして遠くまで行って見えなくなった。」

どうして子どもたちが一様に同じ体験をするのか、世間ではさまざまな憶測が流れていた。火星当局も原因追及に動いている。だが、空を舞う蛸を見るのは、必ず決まって幼い子どもだった。また、親を含む大人たちの見る事例は、一切報告されていない。極めて不可解なことだけに、表向きには情報を伏せつつも、あらゆる分野の学者たちが秘密裏に調査をおこなっていた。

もちろん、天使なんて存在しない。それは子どもたちの幻想に過ぎない。悲しみというものが実体として存在しないように、子どもたちの語る天使は火星を漂うなにか得体のしれない思考的産物だという説を、妻は信じていた。

火星は夢を見る、と説く学者もいたほどだ。でも、本当だろうか?

天使との邂逅以降、どちらかといえば無口だった娘の性格は、少しお喋り過ぎるくらいに変化した。それが彼女の言う天使との悩みの共有に原因するのか、わからない。けれど、娘の目のなかの海の深さみたいなものが、急に増した気がしている。本当に感覚的なものでしかないが。

このままであるなら、得体のしれないものが天使であっても構わないと、私は思う。子どもたちが見るという天使に、私も会いたいとすら希求する。会えないことは、もちろんわかっていても。


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