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わたしはカメレオン

火星に詩人は要らないと誰もが言った。五年経っても十年経っても、世間の空気は変わらなかった。詩は彼女の存在を支えてきたし、火星に渡ってからもイメージが渦巻いた。行き場のない息苦しさに、ヨウコは立ち上がるのさえ、やっとだった。

詩を書くのか、捨て去るのか?窓の外に広がる火星の砂漠に向かって、彼女は問いかけた。

彼女の髪色は赤く、それは火星に着いてから体質が変化したものだった。眉毛も睫毛もありとあらゆる毛が赤かった。彼女の瞳の色が赤くなったのも、同じ理由だった。

町を歩けば奇異に見られた。鮮やかな赤はとても美しく輝いていた。誰もそしることはなかったが、誰ひとり彼女を構おうともしなかった。

彼女がよく立ち寄るのは、花屋だった。萎れかけて捨てるだけの花を、いつも値引き前の価格で買い取った。味覚的に美味しそうな花を吟味して選んだ。

たくさんのノートの積みあがった部屋に、たくさんのドライフラワーが天井を彩っていった。失われた自身の色彩がドライフラワーで補われることで、彼女は部屋にいるだけで落ち着いた。

*

火星に非現実は根づかないと誰もが言った。十五年経っても二十年経っても、現実主義的な世間の風潮は変わらなかった。ヨウコの指はひとりで宙を彷徨い、孤独に星を数えた。

たくさんのイメージは時系列を失い、そのつど星々は散乱し、それでもなお彼女に捕まえられては文字列に定着した。

地球という世界はすっかり色褪せてしまったけど、詩集なら出してくれるよ、と心配してくれる編集者が一人だけいた。もう帰ることのない場所で出版されたとしても、ねえ、とその時のヨウコは呟くしかなかった。

火星で暮らす人たちの目は美しい。走り回る彼らは、どんな悪魔だって敬遠してしまう正の気迫に満ちていて、ヨウコはいつも圧倒される。

でも、みんな花なんて見ない。これから吸う蜜のことだけを考えている。

花はいつか枯れてしまうのだけれど、と彼女は思った。今は生きて死ぬことだけが見えてしまって、なんだかやだな。花のそばに粘着性の蔓を巻きつけて、みんなをがんじがらめにしてやりたい。

*

ヨウコの赤い髪は、四十歳に届かないうちに銀髪になった。白髪ではなく、銀髪だった。髪が銀色になった理由を彼女はもう知っていたが、どう伝えればいいのか、ふさわしい言葉が地球になくて、もどかしかった。

ここが火星であることは、彼女にとってもう重要ではなかった。地球に留まっていたって、遅かれ早かれこうなっていたわ、と彼女は砂漠を眺めていた。

詩なんてやめてしまえばいいのに、とその頃よく言われた。

わたしはカメレオンなの、とヨウコはそのたびに思った。ベロはとても短いけれど。


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