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放蕩息子の帰還

古い屋敷の屋根が赤い丘の向こうに現れると、これまでなかった小川らしきせせらぎが聞こえてくる。屋根はすっかり日に焼けていて、屋敷の壁も窓も全部が現代からの隔たりをみせている。

庭が見えてくると懐かしいビワや柿、南天、山椒、ヒイラギなどの木々の植え込みが、私の記憶をくすぐる。ずいぶんどの樹も成長してしまい、広かったはずの庭が狭くさえ感じる。

この家に戻るのは三年ぶりだ。火星では三年間の招集での社会奉仕が義務付けられているため、やむを得ず私は家をあけた。社会奉仕といっても、たかが知れている。腹いっぱい食べさせてくれて、今後の道筋を保証してくれる制度だから、とても気楽だった。むしろ、申し訳ない気分だった。

たった三年で古びてしまった屋敷は、家が生き物と同じ脆さを抱えていることを表している。掃除もされず、窓も閉ざされたままで、庭木は伸び放題。自然に還るのは、あらゆるものに共通している性質らしい。

家は招集時に売るつもりでいたが、すぐに買い手がつかず、しばらく管理会社に預けていた。でも、ようやく希望者が現われたと連絡がきた。ただ、家屋内にある不用品を引き上げてくれと言われていた。

私は管理人から預かった鍵を使って、玄関の扉を開けた。

*

昔から入り慣れた玄関なのに、その光景に私はたじろいだ。そこに天井まで届く書架がしつらえられ、無数の本が並んでいた。すべて私の本ではなかったし、両親の蔵書でもなかった。そもそも我が家には20冊ワンセットの世界文学全集程度しかなかったはずだ。

私が管理人から指摘されていた「大量の忘れ物」が、これらの本であることは間違いない。私の不在中に運び込まれた本についての事情を、私は管理人に伝えなければならなかった。

念のため、一冊一冊の背表紙を見て歩いた。もちろんのことながら、読んだこともなく、見た経験もない文字が並んでいた。そこからはなんらの情報も得ることができず、本の内容のイメージを湧かせることもできなかった。

おそるおそる一冊を手に取ってみると、ずしりと重量感があった。両手でないと姿勢を維持できないほど重かった。どうやら金属製の表紙だった。試しにページを開いてみた。中は紙ではなく、光だった。これは正確には本ではないのかもしれない。光は見つめていると揺らめいて、時間と共に変化をみせる。視覚的に何が表現されているのか理解はできなかった。新しい電子ブックか、なにかだろうか?

隣のもう一冊を比較のために手に取ってみた。最初よりもコンパクトで、片手で支えられる程度の重さだった。それでも表紙は同じく金属製だった。ページを開くと、今度はただまばゆいだけの光ではなく、現実を再現した動画のような映像が流れてきた。映し出されているのはクラゲのような軟体動物の、どうやら生死をかけた戦いのようにみえた。たくさんのクラゲ(らしきもの)が海の支配権をめぐって作戦を練り、爆弾を投げ合い、運河を死守し、もつれ合った。結局、私たちと似たような未来都市を想像するところで映像は終わった。

このような本(らしきもの)は、少なくとも人類には技術的に不可能だ。

だから、ずっと悪い予感しかしなかった。ここは私たちとは違うなにかに占領されて改装された、図書館か博物館のような場所だとしか思えなかった。

*

本(らしきもの)を観ていたのはどれくらいの時間だろう?いつの間にか、窓の外はうす暗くなっていた。

電気も水道も止められているはずなのに、室内はぼんやりと明るい。どうやら書棚のための間接照明が付いているらしい。

私はまだ玄関から数歩しか入っていないことに気づいた。もう鍵をかけて戻らなくてはならなかったが、ひとつだけ、私の昔の部屋に置き忘れていた荷物を取りに行きたかった。

廊下もリビングも台所も、書棚と本(らしきもの)ばかりだった。昔の家具はどこにも見当たらなかった。二階の私の部屋に上がる階段には、まるで部外者立ち入り禁止を連想させる鉄鎖が道を塞いでいた。鎖は妙に低い高さで、足を引っかけて躓きかねなかった。

私は鎖に構わず階段を上った。

背後で一気に何かが這い動く気配がした。ざわざわという音は近づくこともなく遠ざかることもなかった。すごく混乱していることだけは確かだった。

やっぱり、いるんだ。こんな時、振り向いてはいけないと誰かが言っていたのを思い出した。

*

二階の私の部屋には、昔の家具類がそのまま保存されていた。ここにも立ち入り禁止らしき鎖があり、ひょいと跨いで進むしかなかった。途端に私は人影を見て、ぎょっとした。私の小さい頃の姿そのままの蝋人形が、学習机に向かって座っていた。たぶんアルバムの写真から立体復元したのだろう。

その手前の白いボードに、読めない文字がびっしり書かれていた。

この家にかつて住んでいた少年の勉強部屋とその姿、という見世物になっているのかもしれない。

私の探していた宇宙論の本は、ごっそり無くなっていた。宇宙論は最近大きな修正を迫られていたので、火星人たちが昔の間違った情報を鵜呑みにしていないかと心配になった。机の上に開かれている勉強資料は、なぜか山積みの『おばけのQ太郎』だった。

隣の部屋を覗くと、そこにも鎖で敷居が設けられて、展示スペースになっていた。蝋人形の父と母がベッドの上に正座して、スキヤキを食べていた。目の前の蝋人形は、まるで今にも生卵をつけて食べ出しそうな出来栄えだった。もう父も母も亡くなっていたので、懐かしく思った。少し若めの頃の写真を使っているようだ。彼らがこんなに笑っている顔を、私は知らない。

部屋の入り口には真っ白なメモ帳とペンらしきものが置かれていた。感想を書くためのものだろう。私は率直に思うところを書いておくことにした。ぜひ解読して修正してくれるといいけれど。

「ベッドの上で、スキヤキは食べません。でも、とても懐かしかったです。ありがとう」

放蕩息子はもうここに戻ることはない。この家が人手に渡ったら、火星人たちはどうするつもりだろう?

また別の放蕩息子を探すのかもしれない。

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