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クラゲの孤独な暴走

ポケットにクラゲを隠し持って、僕は火星の街に出た。クラゲは陸上に上がってからというもの、進化が少し停滞しているようだ。

海にたゆたっているのがクラゲの存在意義だったはずなのに、彼らはたゆたうことをやめてしまった。すごく勿体ないことだって思うけれど、クラゲは後先なんて何も考えていやしない。角を右に曲がって、二つ目の信号で停車するなんて計画は、進化なんかに存在しない。

陸クラゲは持ち出し禁止だった。まだ生態がつかめず、生活上どのような危険が発生するのかもわからなかった。つまり、研究途上にいる未確認生物体だというわけだ。

僕は遺伝子解析のことも、生物学全般の基礎もさっぱりわからない警備員だ。けれども、クラゲが僕を呼んでいた。

しかも、僕の祖国のフランス語で。

困ったなあ。

誰も居ない夜の研究室の鍵を開けてしまった挙句、僕はオレンジ一色の街をさまよい歩いていた。

*

僕は仕事を失うだろう。それ以前に、僕はクラゲとシンクロして、なにかとんでもないことが始まりそうだ。すでに僕の一部がクラゲとつながりっ放しのようだ。「僕はクラゲだ」と言い切ることだって、そんなに抵抗がない。

もともと僕は軟体動物が大の苦手だった。そのはずなのに。それに夜の窓ガラスに映る僕の顔が、どことなく僕らしくなくなっている。

「サリュー、サバ」とクラゲは僕の心に信号を送って来た。

適当なことを考えていると、クラゲから「大丈夫、このまま歩くのです」と言ってきた。クラゲはきっと脳波を読み取っているのだ。

クラゲは僕のことを名前で呼ばない。「火星の人よ」と呼んだ。

大きな通りを真っ直ぐ進んでいくと、火星の公共放送局の電波塔が控えめなネオンサインで瞬くのが見えた。クラゲはそのすぐ近くまで、僕を誘導していた。

「ねえ」と僕はクラゲに向かって独り言を呟く。「こんなことをしても、僕たちにはなんのメリットもないと思うんだけれど」

「火星の人よ、心配はいらない。いつでもどこでも、何も起きないことはない」なんてクラゲは言うんだけれど、何言っているんだかわからない。

*

やがて放送局の電波塔の真下に着くと、クラゲは帯電してきて、どんどん僕の意識にシンクロしてくる。どこからどこまでが僕なのか、その境界がすごく曖昧になってくる。

ほんの少しの僕と、大部分がクラゲの僕は、放送局のエントランスの受付でこう言った。

「掲示板の募集広告を見ました」もちろん嘘だ。

クラゲには嘘を本当に変えてしてしまう性質があった。「量子もつれを応用しているのだ。あなたの存在も自在に変わる。まるでカメレオン」とクラゲは小難しいことをぶつくさ言う。それなら僕をわざわざ連れ出さなくてもいいじゃないかと思ったが、心を読み取っているはずのクラゲは何も言い返さない。

クラゲは意外とずるいのだ。

これからクラゲが企んでいることを、僕はすべて知っている。クラゲと意識が常時接続された僕は、火星の第三世代についての妄想でいっぱいだった。きっとクラゲは恐れず実行に移すだろう。

それより、僕には悩みが一つできた。クラゲの見る夢がいつも海中なので、溺れはしないかと怖くてしようがなかった。こればかりは、クラゲにもどうしようもないらしい。僕もクラゲも毎日が睡眠不足でフラフラだった。

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