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長い停電

停電が長引いている。PCがネットワークから遮断されてしまうと、屋内での作業は何もできない。火星の環境情報入力を自宅兼事務所で請け負うロイと彼の妻は、肩をすくめて作業の続きを諦めた。

そういうことは、慣れっこだった。こういう時は、普段しないことをするのが彼らのルールだった。

その日はベランダに椅子を持ち出して、前世紀のアメリカ作家の文学を読むことにした。アメリカの作家は誰も彼も生きることに疲れている様子だった。時間が経った今となっては、死ぬほど悩もうが治癒しようが、みんな死んでしまった。

「どの本の登場人物も、書いている当人も、みんな行き場のない病人みたい。少なくとも何らかのものに依存している」とロイの妻は呆れがちに言った。

「だから、僕たちは健全でありたいと願って、火星に入植たんだ」

「そんな出まかせ言っていると、他人ごとではなくなるわよ」と言う彼女の声は、冗談というよりは諭す感じだった。

停電は二時間経っても解消されなかった。旧式のトランジスターラジオで放送を流した。定期的に停電情報が流れ、その合間に歌が流れた。

火星の電力需給はいつも気紛れだった。主な供給源は太陽光と風力だった。電力はお天気次第といっても過言ではなかった。霧の激しい日は停電になりやすい。今日みたいに晴れた日の停電は珍しかった。

「火星に原子力発電所はなかなかできないのね。安定するのに」

「誰も作りたがらない」

「地球ではいまだに増設している」

「火星には魔物が居ないから」

一陣の風が砂を巻き上げて過ぎていった。赤く染まった空に、火星ヒバリが甲高く舞い上がった。地球のヒバリより小さく、体は少し透き通っていて、その姿はほとんど確認できない。ロイたちも声こそ頻繫に耳にするものの、その姿は見たことがなかった。遺伝的進化というより異なる遺伝子が混じったハイブリッドであると言われている。

ロイの妻は火星ヒバリの声に気づき、トランジスターラジオのスイッチを切った。今まで流れていた古い憎しみに満ちた音楽は、火星ヒバリの声の温もりに変わった。

「どうして、その魔物を連れて来れなかったのかしら」

「そんなに器用な奴じゃないんだ。僕たちと一緒で」

ロイは魔物を知っていた。でも、彼のことは思い出したくなかった。どこにでもいる風体をしている彼、カフェの紙コップをいつも持ち歩いている彼、そんな彼は常時世界とつながっている。つながりすぎていることが原因で、一つのカテゴリーを把握するだけで精いっぱいで、いつも悲しそうな表情をしていた。「いいね」ボタンを押している時も、可愛い動物ネタを書き込んでいる時も、彼の目はいつも虚ろだった。

ロイが「君は友達だ」と伝えても、彼はいつもコードネームを瞼の裏に隠して、「そういうのもいいね」と呟いていた。ロイは彼に対してたいてい傷ついていた。

魔物の名前は誰も知らない。かつて身近にいたロイですら名前を知らない。いつも偽名を使っていた。ロイの身近にいた時は「E」という名前で呼ばれていた。もちろん偽名だ。異なる集まりの中では「G」を名乗っていた。マスコミでは「Q」という名が使われた。

魔物には数十の異なる名前があり、数十の異なるプロフィール写真があった。公開されているだけでも見た目は誰だかわからないほど容貌が違い、性別や年齢や国籍や出生年さえ多種多様だった。

だから時々、ロイはこう思うことがある。誰もが「魔物」と呼ばれてもいいのではないか、と。

日は暮れようとしていた。魔物のことは二人の脳裏から消えていた。まだ停電は復旧しそうにない。火星ヒバリも巣に帰ったのだろう。一帯は静寂に包まれていた。静かすぎるので、再びトランジスターラジオのスイッチを入れた。放送によると、停電はまだ続きそうな様子だ。仕方ないので、読んでいた物語を伏せて、明るいうちに早めの夕食をとって置くことにした。

ロイたちはこの作業を冬ごもりと呼ぶ。

火星の夜は夏でも真冬並みだ。火星そのものがモランだといってもいい。ロイたちは今夜はベッドの中で寄り添って眠ることになりそうだ。

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