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火星豚亭

ABCDE・・・

もうすぐ仕事がひと段落すると思うと、アダムの心は浮き立つ気分だった。居ても立っても居られないとはこのことだ。このリストの最終チェックを済ませれば、あとは週末まっしぐらだ。

その晩、隣のコロニーからヘリバスで遠距離恋愛中の彼女がやって来る予定だった。それに合わせて「火星豚亭」の予約も、先週しっかりメール予約済みだった。なかなか空きの出ない人気店とあって、彼女も張り切って来ると言ってくれていた。

FGHIJ・・・

「カセイトンテイ」と呟いてみた。もう周りに残業している社員は一人もいなかった。「カセイトンテイ」、なんて素晴らしい響きなんだろう。その響きがアダムの唾液腺を刺激して、もう何年もカリカリっとした豚を食べていないことを思い出させた。それは地球で食べた、リュウキュウの素晴らしい豚肉だった。

彼女との待ち合わせ時間は、あと一時間を切っていた。もちろんアダムには勝算があった。最終チェックはあと十分も必要ない。書き損じなどの間違いだって絶対あり得ない。会社を出て「カセイトンテイ」まで、小走りでわずか数分の距離だった。問題ない。

KLMNO・・・

今日こそ彼女にプロポーズしたい、なんとかしよう、とアダムは頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。付き合って五年が経っていた。遠距離恋愛というものは、時間の経過があっという間に過ぎる。まるで火星がいけないみたいにすら思う。火星もいいとばっちりだ。もうこんな恋愛ごっこは終わりにしたかった。先輩たちがするという結婚というものを、アダムもしてみたいと思った。

「カセイトンテイ」で満腹になったら、帰り路の湖岸道路で潔く告白しよう。指輪だって準備万端。真夏とはいえ夜は真冬のように寒いけれど、湖を眺めながらそっと指輪を渡そう。

PQRST・・・

何気なく窓から外を眺めてみた。愕然とした。どこもかしこも真っ白だった。ここがどこなのか、視界ゼロで確認することすらできなかった。

知らないあいだに大吹雪が一帯を覆い尽くしていたらしい。同僚たちが焦るように帰社していったことを思い出した。社内メールで気象警報が一斉送信されていたらしい。アダムの頭は当然真っ白になった。

「カセイトンテイ」までの道はもう大雪に埋もれているだろう。彼女からの飛行キャンセルのメールも見落としていた。メーラーを開くときちんと彼女から届いていた。ヘリバスは全便欠航だという。「ま、しょうがないわね。また次の機会に会いましょうね。バイバイ」とあっさり書かれていた。彼らの関係はまだその程度のものだった。

「カセイトンテイ」からも誠実なメールが届いていた。「お客様からいただいたご予約の件ですが、本日あいにくの悪天候が予測されることを受けまして、臨時休業といたします。そのため誠に残念ながら自動キャンセルとさせていただきます。それでは、またのご来店を心からお待ちしております」そして文末に火星豚亭の美しいロゴマークが赤く入っていた。Kanjiなのに火星の惑星としての姿と、豚としての生き生きした姿が刻み込まれていた。

U、V、W、X、Y・・・

アダムは最終チェックのスピードを落とした。おそらくこの雪はアダムの勤務している二階を越えるほど積もるだろう。彼は帰宅困難者であり、かついざという時の電話番もこなさなければならない。とんだ週末になりそうだ。

Zまで見終わると、書類を元のケースに戻した。残業はもうこりごりだとアダムは肩を落とした。

その晩、換気扇の奥から聞こえる激しい風の音は、いつまでもやむ気配がなかった。暖房も停電のために止まった。いつものことだ。アダムは仕方なく布団のある仮眠室で眠ることにした。

そして「カセイトンテイ」で働く夢を見た。まかないで嫌というほどカリカリの豚を食べさせられる夢だった。彼はとても幸せだった。


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