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火星のハイウェイ(後)

ヘリバスには二人の老婆が、僕たちと向かい合わせの座席に座っていた。彼女たちはあらゆるところがそっくりだった。双子にしかみえない。もし咀嚼する口元の動きが違っていなかったら、映像的なトリックだと思うだろう。

妻と僕は彼女たちに「こんにちは」と控えめに声をかけた。老婆たちはふたりとも右手を頭の高さまで掲げ、片目を閉じて聞き慣れない言葉で返答した。初めて見る挨拶スタイルに、僕たちはきょとんとした。火星には地球からさまざまな民族が、さまざまな国から集まってきていた。習慣の違いに驚くのは日常茶飯事ではあった。

乗客の人数はそれ以上増えることなく、定刻を十分遅れて飛び立った。待つだけ無駄だった。

しばらく長い砂漠が続き、やがて水のない渓谷を越え、また砂漠が続いた。まったく人影ひとつない。こんな荒れ地が開拓されて湿原や耕作地になる日が、ほんとうに来るのだろうか?町が広がり国家規模のコミューンが形成されるなんて、資金作りのための絵空事のように思えた。

また乾燥した渓谷があらわれ、今度は渓谷沿いにまっすぐ飛んだ。
老婆たちはそれぞれ左右の窓から窓外を観察していた。ふたりとも懐かしい景色を見るような表情で、ずっと無言のままだった。


僕はズボンのポケットに入れた農機具の鍵の所持を念のため確認し、それからリュックからノートを取り出した。火星での農作物の栽培は、地球とは方法が異なる。土壌の管理から収獲方法まで何一つ昔の経験が役に立たない。だから、失敗の連続だった。ノートにはそれらこまごました試行錯誤をメモしていた。

火星での農業はまだ実験段階にすぎなかった。これが現実だ。僕たちはこの農業プロジェクトに国家規模の専門研究チームが関わっていて、彼らのノウハウをもとに収穫まで取り組むものだと、最初は思い込んでいた。火星移住を仲介する業者も、そんなことを口にしていた。ところが、専門機関は実在するものの、スタッフたちはマニュアルを持っていなかった。彼らはこれからデータを収集して農作業の可能性を探るのだという。この事実を移住後に知った時は、全身からあらゆる力が消えた。僕たちは火星農業の被験者に過ぎなかった。

どうやら、火星で農作業を経験する者は、僕たちが最初から二番目のグループだったらしい。僕たちはできることできないことを毎日繰り返し、詳細にわたってメモを取り続けた。僕たちには帰りの切符がない。成功するかどうかわからない旅の途上にあった。

妻もこの境遇について悟りすぎるほどだった。地球であれほど活き活きと作物を育てていた彼女は、すっかり無口になった。僕の観察では、彼女の未来が確実に失われつつあった。

砂漠が急に途切れ、巨大な酸素プラントが眼下に広がった。いつの間にこれほどの施設を完成させたのだろう?毎日確認しているはずのニュースに取り上げられたことはなかった。

この目の前の現実は、本当に実在しているのだろうか?と最近よく考えることがある。僕は未来という夢を見ている、実体のない意識ではないかと。

「ジャンクションからジャンクションへ、果てしなく彷徨う火星のハイウェイ。行き先掲示板は数日前から同じものばかりさ。気分はずっと一方通行、君しか見ていないぜ。さあ、どこまでも気楽にいこう火星のハイウェイ」そんな歌のような未来が羨ましい。


実は最近、火星人が出没するという噂が持ち上がっていた。真っ赤な帽子を被って歩いていたとか、井戸で水を飲んでいたとか。ブラッドベリの小説でもあるまいし、噂はあくまででっち上げにすぎないと思っていた。この件について妻と話題に上ったとき、行き場のない不安が逃げ場所=火星人を作り出しているのだろうという所で話は落ち着いた。

幽霊を見たというのと同じだろう。幽霊は脳内の情報処理エラーに過ぎない。あくまで疲れた脳が辻褄合わせをしているだけだ。入植した僕たちはここに来てからずっと不安だし、先行きもわからない。誰もが疲弊していた。だから、見やすいのだ。そう思っていた。

巨大プラントが後方に遠のき、僕たちが冷めやらぬ思いで窓外から視線を戻すと、目を疑った。さっきまで正面に座っていた双子の老婆は、三人に増えていた。まさしく三つ子のようにそっくりだった。異なるのは、やはり口の動きだけだった。このことに気づいた途端、妻と僕は目を見合わせ、どうにもこうにも背筋が寒くなった。僕たちはほんとうに疲れているだけなんだ、とそう信じたかった。

ああ、早く火星にハイウェイができるほど、豊かな日々が来ればいいのに。

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