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ようこそ、火星へ

「ようこそ、火星へ」は火星のローカルラジオ局の名前で、開局からすでに十年が経っていた。火星の魅力を伝える目的も兼ねていたので、地球からでも受信することができた。とはいっても、火星統括本部のプロパガンダとは一切関係なく、そうした物々しさは一切持ち合わせていなかった。

小都市のローカルラジオ局なこともあり、ラジオパーソナリティの人数は極めて少なく、朝、夕、夜間の三つの枠を三人だけで分担していた。「何があっても無理をしない」がモットーだった。誰かが休みの時は音楽だけを流すようにしていた。

ハヅキの担当する時間枠は、夜間だった。昼であろうと夜であろうとスタジオ内は同じ静かな環境なはずだが、まるで時間に色があるようにハヅキは感じていた。彼女はこの時間帯の色がとても好きだった。

スタジオ内には防音のガラス窓があり、遠くの湖の景色とさらに向こうの砂漠を遠望できた。夜が明けて当番が終盤に入る頃、その新鮮な早朝の景色を眺めるだけで、彼女は一日の疲れを忘れることができた。

投稿メールや届いた葉書を紹介するたびに、スタジオの空気はワールドワイドに広がった。地球からメールが届くと、ハヅキの中の世界は二つになる。何度体験しても奇妙な感覚がする。私はどこに向かって話しかけているのだろう、と。


視聴者から届いた文面は、あまり悩まずに読んでしまうハヅキだった。ところが、今回届いたメールは、紹介していいものか迷っていた。どう紹介したものだろう、と一読したあと頭を抱えた。もちろんラジオパーソナリティの一存で採用しないという選択肢もある。

さんざん迷った挙句、最終的にリクエストの選曲につられて読むことにした。彼女のとても好きな曲だったのだ。

「こんにちは、わたしは火星人です」で始まる奇妙なメールだった。

「こんにちは、わたしは火星人のペンネーム希望オクトパスといいます。いつも楽しく拝聴しております。子どもたちも主人もハヅキさんの声をいつも楽しみにしています。ついこのあいだ、近くの砂漠でフキノトウが生えているのを見つけました。ネットでしか見たことのない初めて見る花で、まさかわたしたちが生きて目にするとは思いもしませんでした。皆さんはこれを見つけて春の訪れを喜ぶそうですね。そして天ぷらにして食べるなんて素敵。残念ながらわたしたちの口はそれほど大きくなく、蜜だけを吸わせていただきました。味わったことのない美味しさに、つい舌鼓を打ってしまいました。仲間もあちこちでフキノトウの自生を見つけては噂しています。それではハヅキさん、またお手紙します」

さらっとメールを読み上げてから、ハヅキはいつもの調子でコメントを返した。「火星人のペンネーム、オクトパスさん、貴重な情報ありがとうございます。フキノトウが火星の自然界でも生えているなんて、すごいですね。私なんて地球に居てもフキノトウなんて見たことがなくて、見ても気づかなかったんでしょうね。春の訪れの代名詞だってこと、子どもの頃にお婆ちゃんから聞いたことがあります。久しぶりに思い出しました。火星人のオクトパスさん、本当にありがとうございます。それではリクエストいただいた、初期Yesの名曲”Yours is No Disgrace”です・・・」

本当に火星人だったりするんだろうか?とマイクをオフにしたハヅキは不安に駆られた。自分を火星人だと思い込む人だって、もちろんいるだろう。

それでも、真夜中の湖のブイの点滅を眺めながら、どっちだっていいじゃないと思った。差出人が本物の火星人かどうかなんて考えていたら、ラジオパーソナリティなんて務まらない。

この放送局は、火星の砂漠に一本だけ設置されたマイクだと、ハヅキは思いたかった。マイクの前では誰だって発言できる。内容は自己責任。今回はたまたま火星人を名乗る声を拾ったにすぎない。それでいい。もし、放送局の責任者に火星人のメールのことを詰問されたら、そんな風に思っているままを伝えよう。

迷いが吹っ切れると、「わたしは地球人です」とマイクをオフにしたまま喋ってみた。もうそろそろ音楽が終わりそうだ。



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