【短篇SF小説】アイデンティティ
僕はここで何をしているのだろう?
窓から見える通りの、火星ランドマーク70228って書かれた道標は、どこのテーマパークのものだろう?
そして僕の前に座っている、銀色の衣服をまとった女性は誰だろう?
見たことのない姿の魚料理は、どうやらムニエルらしい。背びれが三つも付いていて、カレイにも見えたがムツゴロウのようでもあった。彼女は器用な手さばきで解体していき、まるで事務仕事のように流暢に口に運んでいく。僕には魚の姿がゆえに、どうしても食欲がわいてこなかった。
手を伸ばすと、僕の腕の衣服も銀色であることに驚いた。
僕はどうしてしまったのだろう?
*
記憶は気紛れに揺れ動く。僕が生まれた年がわからなくなると、どこかから聞き慣れない声が教えてくれる。「2193年というのは、あなたの生まれた年。いくつものことが過ぎ去って、三角形の頂点のような年」
そんなことを囁かれても、僕の理解が追いついていかない。姿の見えない声に待ってとも言えずに、囁くにまかせるしかない。「忘れたことを探すのは諦めなさい。どこを見回しても、あなたの周りの世界は変わらない。失ったと思っているものは、ただ失ったと思い込んでいるだけ」
そして、ふっと声が消える。時おり僕のなかをよぎっていく、色彩鮮やかな思い出のようなものが、嘘だというのだろうか?
自分の住所さえわからずに、彼女にタクシーで送ってもらった部屋には、知らない趣味の本がたくさんあった。
「今日はこれから仕事があるから、今は長居できないの。また夜に遊びに来る」と彼女はタクシーに引き返していった。
どうやら彼女とは付き合っているのだろう。
*
本の山から歴史書を見つけて、急いでページを繰った。
なんだかおかしい。僕は二つの大きな世界戦争しか知らない。歴史書には九つもの世界戦争が記述されていて、最後のページには「Everybody don’t forget about the world.」と英語で締め括られていた。最後の指導者がラジオで演説した、辞世の句だと書かれていた。
きっとこれはアイロニカルなSF小説に違いない。第三次大戦はおろか九回も大戦を繰り広げてしまったのなら、世界は存在できないことは十分予想できた。
それなら、今のこの見える世界は何なんだ?
記憶が揺れ動く。いくつもの像が重なる瞬間がたまにある。世界は夢を見ている。いくつもの鍵盤を叩いて生じる響きと、世界のいくつもの夢は相互に呼応している。悲しみが色濃くにじむ世界、幸せに夢中になる世界、普通であることが認められない世界、感情を押し殺すことを良しとする世界。ピントが合うたび、たくさんの世界像が僕を凌駕する。
きっと3Dの世界を見せられているだけなんだ。
そう言いながらも、幻視装置が頭のどこに取りつけられているのか、さっぱりわからなかった。
*
僕の生まれた2193年に九つ目の大戦争が終わった。火星第4世代だといわれる僕は、地球史の憎しみの複雑さにいつまで経っても慣れることができなかった。
なんど歴史書を読み返しても、登場する対立構造が行ったり来たりしてわからなくなった。
もう終わった世界のことはいい、と匙を投げざるをえなかった。
結局、僕は世界史の本をすべて彼女にあげた。余程の貴重本なのか、それともどうでもいい無価値な本だと思っているのか、彼女は目を丸くして「ほんとにもらっていいの?」と信じられないといった様子だった。
こんな世界の話のどこに得るものがあるというのだろう?歴史から学ぶにしても、現代と名づけられた世界はあまりにも愚かすぎた。
この目の前の世界が、過去の僕が見た束の間の未来像に過ぎないのだとしても、真っ暗な死がすべてを覆うよりましだった。
僕はこの世界で、冷静に方法と目的を持たなくてはならない。そこから伸びる枝葉を森にまで発展させること。それが僕のこれから暮らす世界での、唯一のアイデンティティだった。
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