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体癖別基本操法

体癖別基本操法というものがある。
体癖別に決まっている一連の操法の型がある。

これの使い方がわからなかった。

例えば1種の基本操法を1種にすればそれでよい、健康になる、というような単純なものではない。

どのような仕方でどう使えばいいかわからない操法が整体にはたくさんある。

先日師匠が、ご夫婦、夫1種、妻3種、の組み合わせに於いて、1種である夫に3種の基本操法を行ったと聞いた。

その意が、3種である妻の気持ちを身体で理解する時が夫に来た、その為3種の基本操法を行った、とのことだった。

そういうことか、と私はようやく、体癖とは身体の偏りではなく感受性の偏りであり、ましてや体癖別基本操法は病気治しの為に使うものでないということの意味が理解できた。

その為の体癖別基本操法なのかと得心した。

体癖別基本操法はそれぞれの体癖の基本操法で指導者の身体の使い方がまったく違う。

例えば、3種はやはりふわふわした感じ、5種はテンポと歯切れのよさ。7種は量感で、このすべての体癖の身体の使い方を指導者は体現しないとならない。

自分にもともと無い体癖の動きを自分自身がその通り動いて、被施術者に身体で教えなくてはならない瞬間があるということ。

この辺が、他の療術と野口整体の大きな違いになっている。

野口整体の操法は、処と型とその手順を教わりさえすれば、すぐに誰にでも使える、というようなものではない。

このツボを押さえればこれに効く、というようなものではない。

どうしても修養が必要になる。

しかし、古武術などを介した身体操作を修め、古人に近い動作法をすれば、この体癖別基本操法を使えるかというと、それも違う。
それは不可能なことだと思う。

以前にも書いたが、整体は真剣を中心とした身体操作法ではなく、自分以外の他者の苦しみという身体感覚を中心に布置された身体操作法であるからだ。

廃刀令(明治9年)以後の身体観が中心になっている、半ば近代的な技であると、私は思う。

だから人間性の幅のみが、これを可能にする。

そして、整体に於いての人間性の幅とは、身体の弾力で、それは、活元運動と相互運動によってのみ身体の上で把握される。

だから、野口先生は活元運動と相互運動を推奨したわけだが、一般の方のほとんどは普段の偏り疲労をとる、という程度の動きしかできない。

ほんとうの活元運動は稽古であり、相互運動は手合わせである、という認識をもたないといけないが、それでは単純に健康法を求めている一般の方には、あまりにも敷居が高いだろうと私も思う。

一方に処と型があり、一方に感覚と即興がある。

そして中心には二つ以上の身体とその運動がある。

実際、ここには治療法も健康法も無い。

深みに嵌れば嵌るほど、野口整体の重要性と廃れる理由とがよく感得できるようになってくる。
(2019年1月28日執筆)


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