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.80 眠い朝の寝言
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眠い
相変わらず眠い。眠すぎて、まったくやる気が出ない。
やる気どころか起きている気も出なくて、たいへん憂鬱である。
4月だというのに、こんなていたらくを露呈しているとは、先が思いやられて泣けてくる。情緒は大丈夫なんだろうか。あんまり大丈夫じゃない。
ぼーっとしていると美学も哲学もなくなる
あんまり眠くてやる気が出ないので、ぼーっとする。
あまりの無為な時間に呆然とすると同時に、
このままぼーっとしている時間だけが残りの人生に課されたら、確実に死ぬなと思った。
なんのやる気もハリもなく生きるって、自分に美学も哲学もない状態のことを言うのだろうなと思うのだ。
だから、平日の昼間に眠いとか言いながらゴルフを見られるのである。
こうなったら終わりだと気づき、再び呆然とする。人間、本当に絶望すると呆然としてしまうらしい。
美学も哲学もなくしてはいけない理由
わたしには、こういうどうしようもないときに脳裏にその顔が浮かぶ友だちが3人いる。
彼女たちのことを考えると、自分に美学や哲学を失ってはいけない理由があるとしたら
こういう人たちのためだよな、と心底本気で思う。
では、美学や哲学とは
問題はここからである。
自分には一応保っておかなければならない矜持のようなものはあるらしい。
でも、それが何なのか、まったく掴めなくなってしまった。これは、ひたすら何かを考えたりして辿り着く類のものではなさそうである。
自分がとりあえず守りたい存在はある。そのことは確かである。
でも、それが何色をした何なのかがまったく分からなくなってしまった。そしてそれは、もちろんiPhoneのシルバーとかではない。
今朝までははっきり見えていたはずなのに、いきなり失われてしまったような何かである。
ああ、なんか失恋みたいな感じに近い。いっそ失恋だったら、まだいいのになあ。
外は嵐だけど走りたい
こういうときこそ走りたい。
ラン用のプレイリストにラッキリが入っているせいか、最近ラッキリがかかると無性に走りたい。
たぶん走る距離が足りない
そうか。走りはじめて1カ月と少し。
距離を伸ばすときがきたのかもしれない。もっと走れ。
朝も昼も夜も走りたい
ふと、子どものころに読んだ絵本のことを思い出した。
赤い靴を履いて踊っていた女の子が、踊ったまま死んでいく話である。
朝から晩まで走るって、ああいう感じなんだろうか。
しかし本音として、走っていたほうがずっと楽である。
立ちどまって考えごとなどしたくない。冷静になったり、何かにハッと気づいたりしたくない。
ちょっと休もう
このままがんばっていたら、5月に鬱とかになっている気がした。
走れないほど気を病むのは、つまらないし勿体ない。走れる身体とメンタルは維持したい。そうか、スポーツってこういう効果があるんだ。スポーツが未然に防いでくれるのは、肥満や高血圧だけではないらしい。
よし。今日は午後から遊ぶ。
まとめ
忙しい人がどういうメカニズムで心を病んでいくかが、分かりやすくなった気がする。
忙しいときに心を病まないには、健康法があることと、支えてくれる人がいることと、やりたいことがあるというよりは、むしろやり損ねるのが猛烈に嫌な何かを持っているかどうかが鍵になりそうである。
心を病むか否かという問題自体に、その人の美学や哲学は関係がない。
心が病んでしまうかもしれない危機に陥ったときに、その人の美学や哲学がその人を救うというわけでもない。
その人が病むことによって失ってしまうであろう人やものに関する、その人の危機のことを、美学や哲学と呼ぶのだと思う。
美学や哲学は、一種のリスク管理のことなのかもしれない。
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