.76 最低な気分が最高になって眠れない




ナイスアディダス


勝った!!!

推しのクラブが見事に勝った。いいゲームだったなあ。解説のお二人も「終わりにしたくない」と言っていたが、わたしも「この放送、明日の朝までやらないかな」と思いながら見ていた。

友人に「ばんざーい」とLINEを送ると、「え?忘れてた。てへ」的返事が返ってきて爆笑する。


もう一杯呑みたい夜

こういう夜は飲みたいよな。ノンアルだけど。(※走ってるから)

でも、わたしは明日走る。ちゃんと走りたいのでお酒(※ノンアル)は一杯まで。いつもなら飲み明かす内容の試合である。わたしも成長したなあ。


朝日が眩しい

「走る」で思い出した。毎朝、朝日をモロに浴びている。走る用のサングラスがほしいなあ、とちまちま検索する日々。

雑誌の付録とかで、ランニング用のサングラスが付かないかなあ。ほしいものは付録にならないのが、雑誌の付録なのが本質だよな。


アートセラピーとは

「このあたりって美術館が圧倒的に不足してますよね」と言ったら、「絵とか全然わかりません」とおっしゃる人がいた。絵をどう愉しめばいいか分からないという。

どこで感動して、どんな感想を言ったらいいかと悩ましいらしい。わたしも気分が乗っていたので、自分が過去に描いた絵を見せて話をする。


絵を描いていたころ

描いた絵の説明をする。言語化できないものを言語化するのである。なんて大変なんだ。

でも、自分で描いた絵を説明しているうちに、まさに描いていたころに考えていたことや、日常の空気感とかをリアルに思い出す。

絵をやめると決めたことは、自分にとっては一種の葬送だったんだなとふと思った。


なにかを終えること

なにかに区切りをつけるとか、終えるということは、多分そういうことである。

なにかに一生懸命だった人格が、吸っていた空気が、すべてなくなる。亡くなる。無くなる。泣くなる。

終えることは悲しいことではない

一見ネガティブな単語が並ぶが、悲しいことではない。なにかを終えることは、終えるという事実が残るのみである。

でも、自らの手で終えたのだ。だから、これから先は自分次第でどうにでもなる。いいことも悪いことも一旦終えたら、新しい日々を始めることは十二分に可能なのである。


手紙を書く

友人に手紙を書いた。試合の中継を名残惜しそうにしている李忠成さんと林陵平さん、そして実況の桑原学さんのコメントがいちいち最高である。

昔も、試合のダイジェストを見ながら、夜に彼女に手紙を書いていた。彼女に出会ったころは、わたしは絵の次の自分の表現手段を見つけていたなあと思い出した。


表現手段なんて、意外とあっけなく見つかるものである。「自分には〇〇しかない」は自分に酔っているだけである。「自分は〇〇もできる」との日本語のニュアンスの違いである。英語だったら、後者のほうが圧倒的にポジティブである。


わたしたちの日本語


日本語って悲劇的な響きがすごく映える言語なのかもしれない。そして、そのことに無自覚なまま日本語を使い続けている。


まとめ

己の日本語を磨くべく、今日も文章を書き、本を読む。己の言語を磨くべく、今日も勉強する。己の表現手段のために、今日も写真を撮り、今日も走り、今日も減量し、今日もヘアケアする。

こうして日々は続く。


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