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どんな感情も抱きしめて歩いてく

 この前初めてお酒を飲んで吐いた。しかも家じゃなくお店で。お酒には強い方だったし、今まで酔いつぶれるまで飲んだことがなかったから、自分でもショックで落ち込んだ。一緒に飲んだ人にもお店の人にも迷惑をかけてしまったし、その時にごめんなさいと言えず翌日になってしまった。あほみたいな自分に呆れるし、罪悪感が半端なく押し寄せてきてずどーんてなる。

 わたし他人の負担になってることに気づくのが遅すぎるんじゃない?なんで自分で飲む量調節できなかったんだろ?そもそもそんなに体調よくなかったからかな?いやその時の会話がけっこう嫌だったからかな?ただ歳とったからかな?とか考え始めるときりがないし、ごめんねと謝って気にしないでと言われたところでそうできないから困る。

 わたしが吐く時は大体決まっている。自分の力でコントロール不可能なことにぶちあたったとき、今まで食べられていたものを美味しいと感じなくなり、噛んで飲み込もうとしてもできなくて吐いてしまう。だけど今回はなんか違う。単なるお酒のせいでも、歳のせいでもない気がする。いろんなことが影響しあって起きているように感じている。言い訳のように思われるかもしれないけど。

 1つは仕事。休んでいても気が休まらないのは入試が近づいていること、高校卒業して進路未定の子を支援できる期間が延長できるかわからないことが影響していると思う。出会ってしまった以上、そのことを忘れることはできないし、わたしの性格上3月末までこのそわそわして落ち着かない状況は続くと思う。

 もう1つは一緒に飲んでいた友人。その友人の人や自分との向き合い方に少し疑問を感じている。嫌いではない。むしろ尊敬しているし一緒にいて、話していて楽だ。でも自分の幸せを諦めているように感じる時がある。わたしの仕事への疑問をぶつけてくる。その度にわたしは自分の言葉で返すけど、友人が納得する答えではないようだ。生活保護・生活困窮世帯の中高生と関わる仕事の話が、母子世帯で育ち自分で働いて大学へ行った友人を傷つけてしまったのかもしれない。これは推測でしかないけど、いつも無意識のうちに母や兄弟のケアをしてきたのだろうと感じるし、今も付き合っている人のケアをしながらも喧嘩すると人格を否定しているようだ。「そんなもんだよ」と言う友人の真意はわからない。本当に人生そんなものと思っているのかもしれないし、それが自分の幸せだと思っているのかもしれない。だけどわたしはその声に諦めとか怒りとか呆れとか、そういう色を感じた。

 でもこれはわたしのエゴだ。友人に自分の幸せ諦めてほしくない、変わってほしいと思ってしまったら、それはかなり気を付けて長い目で見ながら、それなりの覚悟をもって関わり続けなければいけない。しかもそれは友人の関係ではきっとできない。セラピーをしようと思ったら相手も自分もその覚悟で臨む必要があるからだ。相手の意思がないところでセラピーは成り立たない。だからわたしはその友人に変わらなくていいし、そのままで尊敬しているし、素敵だと伝えたい。「ありがとう」「こうしてくれて嬉しかった」「救われた」と。

 色んな気持ちが複雑に絡み合った状態で、コントロール不可能になって吐く。相手の感情も自分の感情も受けとめきれなくなって吐く。だけど吐いたって感情が消えるわけじゃないし、罪悪感という新たな感情がプラスされただけだ。自分が怖くなる。関係性が深まれば深まるほど、自分の気持ちも大きくなってわがままを言いたくなるし甘えが出る。相手の本心を知りたいと思って目を凝らしても、中学生の頃からの色がついたメガネを外すことはどうしてもできない。支配、被支配の関係性はわたしが1番望んでいないことだ。そうなってしまっていることにすら気づけなくなるのが1番怖い。支配してるかもしれないし、支配されているかもしれない。何が何だかわからなくなる。

 だけどそれも全部抱きしめて歩いてく。人が本心を隠したくなる時、責めたくなる時には背景に何かがある。自分の感情も味わいながら、人が見せてくれた感情も、ぶつけてきた感情も全部抱きしめる。それがわたしのしたいことだから。

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