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『きみだからさびしい』

『きみだからさびしい』(著)大前粟生(文藝春秋)を読みました。「文喫」で買った本の1冊です。妻が買った本なのですが、私にも読んでほしいということで読みました。レビューというよりは、この本を読んで思ったことを書いていきたいと思います。

今の世の中、価値観の多様性が増していて、多様であるから苦しんでいる人がでてくるのか、と思いました。男はこう、女はこう、何歳までにはあれをして・・・といった不文律がなくなりつつあります。この流れはわれわれが無意識のうちに社会に要請していたものでありました。自分の好きなように生きさせてほしい。長男だからとか、家柄がとか、自分には関係ない。これまでは声に出せなかったり、声に出しても鎮圧されていたものが認められるようになったのです。多様な生き方を認め、個人の個性を尊重し、価値観を押し付けてはいけない。多様性が求められる時代だ、とよく聞くようになりました。私自身なんとなく、多くの考えがあって、それらが共存できるのは素晴らしいことだろうと考えていました。価値観の押し付けは時代遅れだ、と。

でも、「多様な価値観」とはどこまでいけば良いのでしょうか?極論をいえば、この世界に住むひとりひとりが違う考えを持っているので、数十億とおりの考えがあって、それらすべてが共存することを認める、ということになります。そうなると、さすがに社会を維持するのが難しくなるのではないでしょうか。別に否定されるべき価値観が存在するという意味ではなく、われわれは社会を形成し、お互いに支えあって生きている生物である以上、共有されるべき価値観があって、相互にある程度制限される価値観もでてくるだろうということです。

「愛」についてのnoteにも触れたように、われわれはみな、認められ、考えを共有し、ひとつになりたいという欲求があります。孤独が好きな人であっても、本能的に孤独が怖いのです。つまり、人間の本能と多様性の推進は相いれない関係にあるのです。

多様性が重要だという考え方は今後も推進されるでしょうし、社会全体としては良い方向だと考えています。しかし、そもそも人間の本能と拮抗する部分でもあり、単純に推し進めることはできなくなるでしょう。これからは、コミュニケーションがさらに重要になるということです。


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