『禺伝 矛盾源氏物語』 感想

(下記文章にて記載している台詞はうろ覚えです。ご了承ください)

禺伝は矛盾で構成された舞台だ。


女性の演じる刀剣男士。
物語を守ろうとする歴史遡行軍と、物語を破綻させようとする刀剣男士。
物語を紡ぐ紫式部は登場人物となり、一読者は物語を望む結末へと導く。
殺したいほど憎いのに、どうしようもなく愛しい光源氏。


禺伝の本丸に存在する歌仙と大倶利伽羅には、歴史と異なる物語が付与されていた。
刀剣男士にも関わらず、ある意味では歴史改変された存在。


その二振は、今回の戦の中で、真の歴史、つまり自分の本当の物語を思い出す。

偽りの物語は弱く、歴史にはなることはない。
歴史は歴史であり、物語は物語である。

歌仙はそれを証明しようと、光源氏の死体を持ち去ろうとする時間遡行軍を見逃した。


綺伝において、「刀剣男士は歴史から成る。その歴史を守るのは刀剣男士の本能だ」と長義言った。
それならば、歌仙は光源氏の死体を持った時間遡行軍を逃すことなく討伐するのが筋だった。

しかしあの時、歌仙はそうしなかった。
それは刀剣男士の本能には矛盾し、本能とは別の心からの行動だ。

歌仙が、歴史と物語は違うのだと証明したかったのは、偽りの物語を付与されていた経験からかもしれない。


刀剣男士は、顕現されたときから、心を持ち、自らの物語というただ一つの歴史を作っている。

歴史を守りたいという本能と、自分という存在を確かめたいという思い。

心を持ったことによって、歌仙は刀剣男士としての役割を果たすことができなかった。
それは愚かなことかもしれない。

「人でない木偶が心を持つとは愚かなことよ」というのは、本舞台における光源氏の台詞だ。
偶から人偏を取り、心を付けると「愚」になる。
これは他の観劇した方のツイートで知ったことだ。

そして、本公演のタイトルが、偶伝でも愚伝でもなく、「禺伝」なのは、「人ではなく、本来ならば心もない、物語の登場人物」を主題とした物語だったからではないだろうか。



一文字則宗は、紫式部の死に際に、その死を嘆きながら、「物語を読んで、読者の心に生じたものは嘘ではなく真実であり、それは歴史である」と言った。

彼は付け加えられた物語によって、多くの愛を受けた刀である。

一文字則宗に添えられた物語が人々の心を動かしてきたことは、歴史と言える。
そして、源氏物語も、時を超えて多くの人々の心を動かしてきた。

歴史は歴史、物語は物語。
物語が歴史になってしまったらそれは歴史改変である。
しかし、物語が誰かの心を動かしたことは紛れもなく実際に起こった歴史である。



刀剣男士は、刀剣乱舞という物語の中で心を持って顕現し、私たち審神者と共に生きている。

しかし現実では、私たちは審神者を演じるだけのただの一読者で、刀剣男士は物語の登場人物だ。

それでも、歌仙は、この舞台の最後に、「ここが物語ならば、その物語に心を寄せてくれる人に報いたいと思う」、「物語ることが地獄ならばここも地獄だ。この美しい地獄を分かち合おうじゃないか」と言ってくれた。

刀剣乱舞という物語で、私たちの心を動かしてみせる、そして、嘘で形作られた物語という地獄を審神者とともに生きようと。

歌仙がそう言ってくれたことで、刀剣乱舞という物語の読者である私も、審神者としての私も救われた。


私たちは今日も、刀剣乱舞という物語の中で生きている。

刀剣乱舞を好きになり、禺伝に出会えて本当に良かった。



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