ジェフ千葉への思い(3)

〈前回のあらすじ〉
 戦力増強と有能指揮官の下、快進撃を見せたジェフ市原。しかし掟破りの監督強奪により暗雲が漂い始める・・・。

 ベルデニック強奪により、2002年の指揮官はベングロシュ監督に落ち着いた。この方、欧州のサッカー指導者の名伯楽として有名で、兼任でこの年に行われた日韓W杯のテクニカルスタディズグループのチーフも務めたほどの人物。(註1)この後もジェフの監督人事は「どこから引っ張ってきたの?」と言われるほどの不思議人事が行われるのだが、それはまた後ほど。
 この年のジェフ市原は総合7位。後半負け越したものの、中位をキープできた。しかしベングロシュ監督は諸事情のため一年で退任。正直「いい加減にしろ」な気分だった。
 監督が替わるということは、指導や強化の方針が変更されるということ。毎年のようにコロコロ変わるので、クラブの目指すものが何なのかが見えてこなくなる。
 振り返っている今なら、クラブの責任というよりも不可抗力な部分が大きかったんだな、と理解できるが、当時はそんなん分かる訳がない。応援はするけど、不信感が心のどこかにあった。

 そしてその不信感は、木端微塵に打ち砕かれた。
 ジェフ市原は、とんでもない人物を監督に据えたのである。

 イビツァ・オシム。
 旧ユーゴスラビア代表監督で、1990年イタリアW杯ではユーゴスラビア代表をベスト8に導き、その後も欧州中堅国のクラブをチャンピオンズリーグ(欧州のクラブ最強決定リーグ)に定着させるなど、その手腕と実績は疑いようもない。ぶっちゃけた話、欧州トップクラスの監督を務めてもおかしくない人物だ。日本に来ること自体があり得ない人が来てしまった。(註2)(註3)
 そしてそのあり得ない人は、あり得ないことをしでかした。

 2003年前期、ジェフ市原は常に優勝を争っていた。最終的には競り負けたものの、そのプレースタイルは他のチームから恐れられ、嫌がられた。
 マンマークをベースに、チャンスと見るやマークを置き去りにして攻め上がり、カウンターアタックで得点を量産する。一見、当時の流行スタイルだったゾーンプレス(相手を囲い込んで守る戦術)と比べると時代遅れのスタイルだが、後方からわらわらと攻め上がるジェフに対戦相手は「二人くらい人数が多いのでは」と錯覚するほどの恐怖を植え付けたのである。(註4)
 ちなみに、この年を迎えるにあたり、選手の補強がほぼ無かったことを付け加えておく。
 つまり、オシムは昨年の現有戦力と新人を含めた若手選手を、自身の指導と落とし込んだ戦術のみで優勝争いできるレベルまで引き上げたのだ。
 驚くのはまだ早い。この年、ジェフの登録選手は28人。そのうち試合に出られなかった選手は怪我で離脱した一人のみ。他の選手は全て公式戦に出場したのである。これがどれだけ凄いことか、集団をマネージメントした経験のある人に聞けばよく分かるだろう。
 「中堅レベルの集団を、補強に頼ることなく、新人を含めて全員試合に使い、尚且つ優勝争いを繰り広げた」
 離れ業どころではない。まるで夢を見ているかのようなことが、この2003年に起きたのだ。
 私を含め、ジェフサポーターは唖然とし、そして「ついに当たり監督を引けた」と歓喜した。

 しかしその年のオフ、またもやチームが揺れた。
 チーム得点王のFWチェ・ヨンス、元日本代表GK下川健一、フランスW杯レギュラーだったDF中西永輔の3人が他のライバルクラブに移籍したのだ。
 いずれも、このチームを牽引した屋台骨の選手である。そしてこの3人に替わる大規模な選手補強は無し。これにはサポーターも黙っていなかった。退団する選手を引き留めようと、姉崎の小さなクラブハウスに集団で詰めかける騒ぎになったのだ。
 せっかく優勝争いまで持ち込めたのに、なぜ主力を放出するんだ。そんなサポーターの思いを見越したかのように、オシムの指導を受けた選手たちは翌2004年も優勝争いを繰り広げたのだ。最終的に優勝には届かなかったものの(註5)、名だたるビッグクラブと渡り合い、互角以上の戦いをしたのである。もうね、何故そんなことができたのか、私は今でも分からない。一つ言えることは、オシムが来てから自分の既成概念が次々にぶち壊された、これだけは確かである。
 そして2005年、オシム監督就任3年目を迎えた。
 プロスポーツの世界では、3年で示した結果が指導者の実績になることが多い。クラブも、選手も、サポーターも、今年こそはタイトルを、という意気込みで臨むシーズン。「アレ」は起こるのか・・・。
(次回に続く)

註1 ベングロシュ監督はFIFAやUEFA、W杯の会合や手紙を送る際に、必ずジェフ市原の便箋や筆記用具を用いた。これにより、W杯関係者や世界の指導者間で「ジェフ市原」の名前が広く知られるようになった(らしい)。
註2 この偉大な人物を紹介するには、とてもnoteでは収まらないので、詳しく知りたい方は木村元彦さんの『オシムの言葉』をご一読いただきたい。サッカーのみならず、当時の旧ユーゴスラビア情勢なども織り込まれており、イビツァ・オシムという人物を深く知ることができる名著。
註3 実際、スペイン、いや世界屈指のクラブであるレアル・マドリードはオシムに何度もオファーを送ったがその度に断られたそうだ。そして断られた直後にジェフ市原の監督に就任したため、「オシムを射止めたのはどんなクラブだ?」と本気で調査を行い、2004年のアジアツアーでジェフと親善試合を行うという、常識を放り投げたかのようなマッチメイクが実現したのである。これ書いてる今も「わけがわからないよ」。
註4 この投稿を書くにあたり、当時の試合を見返して驚いた。現リバプール(イングランド・プレミアリーグの強豪)の監督、ユルゲン・クロップの代名詞「ゲーゲンプレス」とそっくりだったのだ。古い戦術?とんでもない、10年以上未来のプレースタイルを日本の一クラブに植え付けたんだよオシムさんは!
註5 シーズン後半に、レギュラーだったブラジル人FWが婦女暴行罪で逮捕、契約解除になるという不祥事があったことを付記しておく。この出来事には心底ガックリきた。

※あぁ、次の投稿は感情的にならないように気をつけなきゃ。

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