かつて、音楽は貴重だった。

現代人にとって、この貴重さを理解するのは難しいのかもしれない。
21世紀、我々の周りには、始終、音楽が漂っている。そのせいで、ほとんどの音楽が、まるでBGMのように聞き流されてさえいる。が、百年前の人々は、サティがBGMとして用意した音楽を聞き流すことができなかった... この、世界で最初のBGM、家具の音楽に対するリアクションを思うと、複雑な気持ちになってしまう。
録音、再生という技術が確立される以前、当然ながら、音楽は、演奏された時、歌われた時、その時にしか存在し得なかった。その時を聴かなかったら、二度と聴けなかった。なればこそ、目の前で音楽が鳴り始めれば、反射的にその音楽に耳を傾けずにはいられなかったという純粋さ... それは、我々が失ってしまった音楽に対する純粋さなのだろう。

家具の音楽のお披露目から百年、レコードはCDとなり、さらにオンラインがスタンダードとなりつつある21世紀、我々はますます簡単に音楽に触れることができる。また、古今東西、ありとあらゆる音楽に触れることもできる。百年前からしたら、それは、畏るべきことであり、まるで音楽の楽園にいるかのようだろう。しかし、何か大事なものを失ってしまったような気もする。家具の音楽を聴かずにいられなかった百年前の人々の純粋さを思えば、何か楽園を失ってしまったような感覚にもなる。

テクノロジーというリンゴ... それは、魔法のリンゴだったが、魔法は音楽のパースペクティヴを消失させてしまった。そして、我々は、今、無重力状態にあるのかもしれない。これは、音楽に限らず、あらゆる場面で言えることかもしれない。そして、無重力の中、かつての重力下で育まれた意識を手放せずに、何とか態勢を取ろうと足掻き、無駄に力を使い、疲れてしまっている... もっと自由になれるはずなのに... 今、世界中で起きていること、あらゆることを目の当たりにすると、そんな風に思えてくる。

って、何だか話がデカくなり過ぎました。いや、遠く百年前から、サティの叫び声が聞こえてきそうだ。

聴くなァー!話せェー!

あの時、サティは、すでに自由だったのかもしれない。
そうか、サティの音楽のあの脱力は、

百年後のためのもの...

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