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自由フロム自由🍠 AS ONE  下書き


自由-腸悦の内在 おいもぷす

芋源五ゲーム派、裸感派、ヘーゲリアン的イモタリアンは語る




「~への自由(積極的自由)」、「~からの自由(消極的自由)」 エーリッヒ・フロム

「自由の刑」 サルトル

「絶対精神」 ヘーゲル



人間は否定のシステムを持つ。

「自由フロム自由」、「自由の系の腸悦」



自由とは何か?🍠


ルーマン「社会のX」

Xに社会を代入すれば「社会の社会」ということになる。


ちょっと真似して

「~からの自由」の「~」へ

自由を代入すると「自由からの自由」ということになる。


自由というもの自体の内に、「乗り越え」、「腸悦」が含まれている。それは自由すらも「腸悦」していかなければならない。


意味はゲーム内でのみ成立する。「真理」なるものもゲーム、システムと独立してあるわけではない。


自由において、それらは自らの由るものである。

しかし、また乗り越え、「腸悦」の対象でもある。


ゲーム解体ゲーム、ゲーム腸悦ゲーム


自由はその内部に爆弾を抱えている。

そして、自由を求める人間もその爆弾を抱えている。

自由、その果てに何がある。それは消失してしまうのであろうか。


自由、不自由、無自由、非自由、腸自由


自由と否定を内部に抱える人間。

享楽、蕩尽、おいもぷす。


自由からも自由でありたいという人間独自の海草性、高階の自由、自己言及的な自由、再帰的な自由を内に抱えている。




自由は自由のベースであるゲームすらも破壊する衝動を内に秘める。

「自由からも自由でありたいという自由」を内に秘める人間。

もともと病的で、破壊的なのではなかろうか。


それを抑える超自我とやら、それとの争いはありがたいも



なんだかんだ

「闘争し闘争
考察して投下
目に見えるもの全て
その表裏
全てはAS ONE」

(UVERworld AS ONE)




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