見出し画像

すきな番組には、生活音がある

すきな番組。
たくさんある、正直。

小学生のころからドラマが好きだったし、中学時代はラジオにもハマって、勉強しながらよく聞いていた。
小説家になりたい!とか、ラジオパーソナリティーになりたい!とか、夢に見たことがあったほど、ひとと遠回しにつながることができる感じとか、妄想や空想すらも誰かに喜んでもらえる糧になることの衝撃とか、いつもの時間に、いつもの人が、楽しくしゃべっている音を聞くだけで、どこかホッとする感じとか、あったなぁと思い返しているところです。


真っ先に出てくるのは、「大豆田とわ子と三人の元夫」というドラマ。
数年前に放送された、松たか子さん主演のドラマだ。

飽きずに何度も見て、毎回違う味がするところがこのドラマをすきな理由。

セリフに生活音がするのだ。

例えば、3人の元夫。
一見よくありそうで、よく、は見かけない。
くすくす笑えるけど、実際に目の前で言われたら全然笑えない、むしろ距離を取りたくなる人ばかり。(これはあくまでわたしの偏見(笑))
3回結婚するとは、幸せに貪欲そうに見えて、実際はもっとシンプルで、身の回りにある時間を丁寧に描いている。

しんどい時は誰かによりかかりたいし、他人にとってはなんてことないけれどどうしても嫌なことってあるし、調子に乗っている日もあれば、自分で決めたことでも「あ~ぁ」ってため息つきたくなることだって、ある。

何気ない毎日の中でも、ときめきはあるし、しあわせのなかにも、さみしさは混じる。

そんな揺れ動くこころにさらりと焦点をあててくれるような、思い出させるような、大きな出来事こそ本のページをめくるように場面展開されていく描写とか、もうすべてがツボ!!!(笑)


地上波で放送されていた時に見ていたころは、「なんかおもしろいなぁ」って、離乳食を作りながら眺めていたっけ。

育休終わっちゃうなぁ。
子育てと家事をしている時間って、ものすごくしあわせだなぁって思いながら、でも働かないって負けてるのかな、なんて考えていた。
(なにと戦っているんだか、ね)

お金を稼いで、ほしいものが買える。
それが、社会のまんなかに属している感覚だった。
おちこぼれていないわたし、一人前のわたし、誰かに認めてもらえている証のような感覚。

専業主婦は、お金持ちの旦那様がいるひとだけの特権だと思い込んでいたし、お母さんだけのわたしは似合わないとも思っていた。

子育てを中心におきながら、お仕事できないかなって思い始めたのもこのころ。

仕事も、母親も、女であることも、大切にしているとわ子に、ほんのり憧れがあったのかもしれない。

お皿を洗いながら、何度も何度も見た。
繰り返し見ては、とわ子が実在するかのように作り上げられた、作り上げられすぎていない空間を見ることが、なんとも好きだった

どこにでもありそうな、でもどこにでもないような、そんなドラマはリピートしてしまう。

あの頃のわたしと、いまの私。
想像できない現在が広がっているのだけれど、とわ子もきっと結婚したときには3人の元夫ができる未来なんて想像していなかっただろうし、自分がしあわせに貪欲であることすら、今も気づいていないかもしれない。
しあわせに貪欲というか、じぶんをあきらめていない感覚にも近いし、埋められないモノを大切にもっているとも言えるかもしれない。

しあわせってカタチがないんだもの。
結婚も離婚も、子育ても、なくしたものも増えたものもすべて、
単なる事実でしかない。
そのなかで、なにを感じて、なにを見て、なにを選んで、なにを選ばないで、生きていくのか、ただそれだけのこと。

みんなどこか、でこぼこしていて生きづらくて、
だれもがどこか、ちょっとだけしあわせで、
ほんのちょっとだけ交わって、人のぬくもりを感じて、生きている。

「大豆田とわ子と三人の元夫」は、そんな毎日の連続を、やさしく丁寧に、時に乱雑に問いかけてくれる、そんなドラマだ。


ふと疲れたら、なにかの分岐点に来ていたら、もう一度、わたしは見返すだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?