「殺す若者」(50158文字)昔の処女作

龍が燃えている。

力強く、懸命に、輝きを放つ炎。
僕は熱を感じている。そう、確かに思う。この不思議な景色は僕の目に、はっきりと焼き付き、胸の中で、何かを連想させる。炎は星空の下でただ真っ直ぐに天へ。そうして、燃え上がる龍の周りをふわふわと妖精のように飛び交う火の粉は、暗闇へと好きな方向へと駆け出し、力なく消えていった。時折、剥き出しになった木材が、生き物のように紅い粉塵を散らせながら、音を立てて崩れ落ちていったが、その中心では龍の胴体部分が自らの存在を知らしめるように大きな火柱をあげている。燃え上がる龍と、それを見つめる僕は随分と離れていたはずだったが、煌々と目映い光を照らしながら最期を迎えていく光景は、はっきりとその熱を僕へと届けた。
僕は完全に惹かれていた。あの炎が持つ、直向きさに。美しさに。何の偽りも迷いも無い、煌めく炎に、ただ心を奪われていた。

―うつくしい

僕の脳内に直接流れ込んできたような、突然の呟き。その声にふりかえると、自分の立っている斜め後ろに陽がいた。どのくらいの時間、僕はこうして足を止めていたのだろう。自分の意識がきちんと体に入り込んでいくのを感じ、急速に僕は現実に戻されていく。同時に、ただ燃える龍を見つめて立ち止まっていた姿を見られたのが、陽で良かったと安堵していた。
「なに言ってんの、急に。」
僕の口から咄嗟に出た言葉は、少しだけ警戒したような口調だっただろうか。
「お前、そう思ってただろ。」
陽の大きな黒目の中では、炎が燃えている。その炎は、校庭で燃えているそれと少しも違わないように思えた。
「なんか、お前の顔見てたら、そう、感じた。」
「ただ綺麗だなって思ってただけだよ、んだよ、陽、急に後ろから、気持ちわりぃな。」
僕等が通う高校の文化祭は少しだけ変わっていた。文化祭が開催されている期間には、僕等の学舎のすぐ横の校庭に、龍が建立されるのだ。もちろん龍は造り物だが、文化祭の数ヶ月前から、胴体や腕、尾、そして顔のほとんど大部分を、木材を用いて、各クラスが製作作業を行い、文化祭当日に組み立てて、完成させるというものだった。夜を徹して、生徒達が資材の手配から組み立てまで龍を造る様子は、数年前にテレビ局に取材をされて、ドキュメンタリー番組として放映されたこともあるらしい。なんだか歴史のある伝統行事らしかった。そうして、今年も我が高校の校庭に、龍は舞い降りたのである。本物の龍がいればこんな感じなのかもしれない。その大きさは地面から七、八メートル位にはなっていた。文化祭が開催されている四日間、龍は校庭の中央に静かに佇み、最終日には燃やされて、その短い命の最期を迎えてしまう。
燃え上がる龍の周りには、生徒が円を描いて、渦の如く、くるくると廻っている。何か宗教めいたものを感じるが、これもまた何十年と続く伝統の文化祭の行事のひとつらしい。生徒は想い想いの姿で、部活動の仲間や、仲の良い友人達や、そして、中には恋人と走る者もいる。何をする訳でもなくただ騒ぎ続け、燃える龍を囲み走り続ける。僕が生まれる、もっともっと昔には、龍は屋上にいたそうだが、当時はどうしていたのだろうか。文化祭最終日の今日は生徒だけでなく、昼間には校外から一般の人も訪れていた。既にその賑わいは失われ、燃えあがる龍の周りを、僕の良く知っている生徒だけが走り回っている。
辺りが暗くなり始める頃、龍に火が点けられた。製作実行委員には泣いている生徒もいたらしかった。僕はというと、この三年間、ボランティアで行われる龍の製作に携わったことが無かった。だから、龍に点火する文化祭の目玉のシーンは、僕にとってはなんでもない日常だった。校庭で弓道部が火のついた矢を放つ所業が、何か法律に触れていないのだろうかと、空に弧を描く炎の軌道をぼんやりと眺めながら、どうでもいい心配をしていた。
しかし、この時、僕は確かに燃え上がる龍に心を奪われた。帰り際、校庭の中心で繰り広げられていた三度目のはずのこの光景に、惹かれたように、見惚れ、そうして自分の心が、炎を見つめることでひどく落ち着いていくような、何かを肯定されているような、不思議な感覚に包まれていた。
「陽、帰るなら一緒に駅までいこうよ、今日は電車?」
そう陽に声をかけると、陽も校庭を見つめていることに気が付く。端正な顔立ちの彼の顔は、炎で紅く照らされていた。幼い頃からよく見てきた顔だったが、ここ数年で顔立ちが変わった気がする。僕も陽も、たぶん、少しだけ、大人に近づいた。陽は、小さい頃は背が低い方だったが、高校生になってからは、急に背が伸び、今では僕よりも大きくなっていて、ふっくらと膨らみのあったまんまるな顏も、顎が出て、鼻筋も高くなっていた。初めて会った十歳の時よりも、陽は随分と男前になっている。
それにしても、さっき、陽から声をかけられた僕は、どんな表情だったのだろう。陽に「うつくしい」と感じさせる表情。炎に照らされた自分の顏が、更に、紅くなっていくのを感じる。
「帰ろうか。」
ゆっくりと陽は、僕の方へと体を向ける。
炎に照らされた陽は、紅く燃えている。
「今日、チャリだわ。」
陽は片手を上げ、僕の顏の前にぷらりと、自転車の鍵を垂らしてみせた。校舎の横から、校門前に設置された自転車置き場まで陽と並んで歩く。時刻は七時を過ぎた頃だというのに、まだたくさんの生徒が残っているようだった。龍の周りには、人の流れが渦巻き、それ自体が土の上をずるずると這う龍に見えるようだった。
「もう九月だぞ、寒いだろ、なんで自転車で通ってんだよ、お前。」
陽と僕の家は凄く近い。電車で通学すれば、自転車で来るよりかは、それでも幾分早く通学できるはずだった。陽はなぜか四十分以上かけて自転車で通学をしている。僕は、そんな生徒、陽以外知らない。
「気ぃつけて、帰れよ。センター試験まで、もうちょっとだな。」
僕の問いを完全に無視し、陽は何も無かったかのように、進路の話を始めた。僕等は高校三年生。もう時期、秋が過ぎ去れば、大学入試がやってくる。
「俺は来年から本気だす。全然勉強してなかったしな。」
僕はいかにもだめそうな雰囲気で、おどけてみせた。陽に見透かされているようで、そして、それを願うように、僕も陽の問いに真剣に答えやしなかった。陽は関東の国立大学の理系の学部を受験する予定だ。いつの日か、発明家になると陽が言っていた気がする。僕は、何の目的も無く、ただ流されるように文系の学部を受験することを決めていた。
「いや今年頑張れよ、まだ半年近くあるだろ。」
「だって俺、部活辞めるまで三年間、授業聞いてなかったんだよ、流石に辛いだろ。」
そう言いながら、頭を抱えるような仕草をわざと見せる僕に、陽は不思議な笑みを浮かべ、自転車にまたがる。
「お前なら大丈夫だろ。」
そう呟いて僕に背を向けた。驚く程、その言葉は素直に、綺麗に僕へと届く。親の言葉や、教師の言葉を疑ってしまう僕にとって、なんの疑いも無く聞ける言葉なんて、そう多くはないはずだ。自転車を漕ぎ始めた陽の背中は、校庭から漏れる紅い光に照らされると、一瞬で外灯もほとんど点いていない田んぼ道が作り出す、暗闇へと溶け込んでいった。
僕はその場から動かずに校庭をまた眺める。龍は燃え、先程見つめていた時よりも、更に形を成してはいなかった。液体ともつかない、固形ともつかない、その狭間に存在するような塊が、校庭の中央に陣取り、幻想的な色を発している。燃え始めた頃と、炎の輝きもその様態を変えていた。闇が濃くなれば濃くなる程、その力強さを確かなものにさせているようだった。まだ生徒は、泥だらけになりながら、校庭の周りをくるくると廻っている。笑い声も、歌を歌っているような声も聞こえる。賑やかで、十代の彼等は、生命力に溢れきっている。中心にそびえる炎を纏った龍はその権化に近く、ひたむきで、純粋に、燃え上がっている。
ああ、やっぱり、うつくしい。僕は、もうちょっと、もうちょっとだけ、と心の中でそう唱えると、燃える龍をまだ追い求めていた。

   *

ふと、たくさんの熱が踊り狂う中、見慣れたシルエットを見つける。
後ろの燃える炎によって切り取られた影はあまりにも、異様だった。ふさふさと前後に揺れる髪の毛。自分の髪の毛を「陰毛」と公言しているケンは、芸術的に爆発しているヘアースタイルの持ち主。馬のタテガミ(実際にしっかりとは見たことがないのだけれど)のような厳かな髪型をしていて、それでいて傍にいって一本一本を観察すると、ああ、ステンレスのたわしかと納得できる程に、剛毛で頑丈な毛質に、あいつの頭は覆われていた。
炎の逆光、そして、入り乱れる人の中、疾走をしているケンの影は、まるで映画のワンシーンのようだった。スローモーションにその姿が映る。ケンはそのまま、とある人影の元で立ち止まった。随分と小柄。おそらく、女性だろう。ゆっくりと片足を地面につけ、まるでお姫様を迎えに来た王子様のように、流れるような動作で、お姫様の片手を取った。時が止まるような感覚で、それを見つめる僕の視線は釘付けになってしまう。とくん、とくんと、僕の心臓の音か、首筋で脈打つ音か、どっちかよく分からない、リズムがよく聞こえる。自転車置き場と校庭との距離は、最初、僕と陽が龍を見つめていた場所より更に遠いのだが、ケンが何かをその人に伝えていることが、離れていてもよく分かった。数十秒、そのシルエットはうつくしい形を保ち続ける。やがて、ケンの影は勢いよく立ち上がり、なにやら体を丸めて、もぞもぞと動いていた。案の定、僕のポケットの携帯が震え始める。折り畳みの携帯を開くと画面には「着信:陰毛」の文字。そのまま電話を耳に当てると、僕の視線の先の雰囲気がはっきりと伝わってきた。お祭り騒ぎの中だと、ケンの甲高い声でも、少し聞き取りづらい。
「すげーの!聞いてみっっ。」
飛び跳ねている。ふさふさと。髪の毛を揺らしながら。
「結婚を前提にお付き合いすることになった、どうしよう、俺、やっぱり銀行員だよ。」
僕はまだ一言も喋っていない。そして、ケンに好きな子がいることも一度も聞いたことがなかった。美しく燃える龍の手前で、その光に祝福されるかのように、あの陰毛が神々しく、ゆらゆらと揺れている。
「いやーやっぱり、勇気を出すのって本当に大事だなぁ。」
「うん。」
 僕は適当に相槌を打つ。ケンとの会話は、なんでもいいのだ。
「やっぱり、庭付き一戸建てだよな、子供はできれば二人くらい欲しいよなぁ。」
 ケンの言葉は止まらず、溢れ出ていた。ケンは、まだ見ぬ自分の未来を、まるで龍の放つ輝きに照らされているように、はっきりと語って見せる。ただ、それを聞いている僕だったが、僕にもケンと同じように彼の未来が、はっきりと分かるような気がしていた。
「そのまま、燃えちまえ。」
 僕はそれだけ呟き、電話を切った。顔をあげて、再び校庭全体を眺めてみる。龍を包み込んでいった炎はまだうつくしい、ただ直向きで、力強くて、ただ純粋な様だった。ケンの影はまたもぞもぞと動き、体を丸めて何かをしている。再び電話をしている様子だったが、今度は、僕の携帯は震えなかった。陽は、たぶん、懸命に自転車を漕いでいる。こんなにも素敵な知らせに気付くことができるだろうか。
陽に遅れること十分、僕は歩いて校門を出る。この時間にちょうどいい電車はまだないだろう。陽は、僕より先に、家へと向かっている。ケンは好きになったあの子と多分、まだ話しているのだろう。
 校門を抜けると、すぐに暗闇が訪れる。りんごの木がたくさん生えている小道には驚く程、離ればなれに外灯が設置され、その足元だけしか照らしていなかった。道のすぐ横には少し足を踏み外せば落ちてしまう、薄暗く、汚れた用水路が、緩やかに流れている。夜空には、いつもの帰りの時間には見ることのできない、小さな星までも、光輝いていた。なんの匂いかは分からない、小さい頃からこの時期に感じる特有の夏の終わりを告げる、どこか懐かしい香りが、充満している。心地よさだけ後に残る風。僕は、地元の大学には進学する気がない。こんな田舎の景色は、大人になったら多分、見ることはないだろう。 
 そしてそれは、僕だけではないはずだった。陽もケンも同じである。
ゆっくりと、穏やかな足取りで、僕は歩みを進めた。


陽の住む世界は、きっと今頃、真っ暗だろう。

青く澄みきった空、僕は大学を見上げる。誰かが都会の空は狭いと言った。それは、はっきりと嘘だと思う程に、都会の空は高く、果てしなく、遠かった。オフィスが入り込んでいるような僕の通う銀色のビルは、余すことなく社会的で、自分が学生であることを忘れさせてしまうことがある。まだ五月も半ばだというのに、東京は少し蒸し暑かった。上京してきた時には、この暑さは、まるで四季以外の別の季節のように感じたことを覚えている。
僕とケンは高校を卒業してから、浪人をして、大学生になった。一切勉強をしていなかった僕だったが、それでも浪人の期間は、それ以外することが無かったので、ちょっとは賢くなれたようだ。就職活動に有利とのことで、選んだ学部は法学部。しかし、大学三年生になった今でもまだ六法全書に触れたことは無い。
堀沿いの線路と平行して作られた遊歩道。僕はいつもの通学路を歩いて、講義へと向かっていた。途中のベンチにはほとんど毎日、ホームレスの老人が座り、人が一人入りそうなリュックを携え、街を眺めている。実家にいた時には、決して見たことが無かったホームレスという人。始めこそ、その異様な光景に慄いたものの、今ではすっかり景色に溶け込んでいた。彼の視線の先、遙か高いビル。僕の通う大学。三度目の新学期のシーズンを迎えても、僕はまだ都会の生活に慣れていなかった。いや、二年続けたこの生活がまだまだ新鮮で、その状況に未だに興奮をしていた。
校門をくぐると同時に、始業のチャイムが鳴り響く。今日こそ講義を余すことなく堪能してやろうと高尚な気持ちで、小さな下宿を飛び出したはずが、なぜ数分遅れてしまうことが分かった途端、こんなにも足が重くなるのだろう。急ぎ動かしていた歩みを緩める。何回か自動ドアを通り抜け、続いてエスカレーターに乗り、更にエレベーターを利用して、ようやく目的の教室に辿り着いた。小さい頃見たことがあるオペラ劇場のようなホール、そんな教室は、様々な学生の話し声で満たされている。一番後ろの席と教壇との位置関係は、決して、何かを伝える距離感では無かった。
おそらく二百人近くいる学生に背を向けられた状態で、僕はきょろきょろと首を動かし、あいつを探す。といっても、五秒も経たないうちに、僕は歩み始めていた。ケンの髪型は、昔から変わらない。始業のチャイムが鳴り響いて、数分だろうか、ケンは右手でペンを垂直に持ち、何か物を書いているような姿勢で、それでいて、顔面は完全に机に突っ伏していた。さながら、密室殺人の死体。しかし、現況は平和な日常の一幕で、真面目な生徒を装う彼の睡眠姿勢は、完全な不完全犯罪である。すぐ後ろの列に座っている二人組の女の子が、ケンの道化のような姿を見て、愛らしいと思っているのだろう。つついたり、笑いあったり、その硬直した姿にちょっかいを出していた。
「ケン、俺のレジュメは。」
いつものように頭に乗せられた陰毛。それが、返事をするように微かにそよぐ。
「お前、遅刻だぞ。」
ケンは微動だにせず、顔面を突っ伏したまま、机に話しかける。
「ほとんど間に合ってるよ。」
ケンは結局、僕と同じ大学にいた。僕等、陽を含めた三人は、小学校で地元のサッカークラブで出会い、同じ中学、高校と共に過ごした。そのうちケンだけは更に、大学でも同じ時間を生きていた。正確には浪人時代も仲良く予備校での勉強と、公園めぐりという名の現実逃避を交互に勤しんでいた。
「なんかさ、あれだって、来週小テストやるってさ。」
僕は彼方の教壇の教授に目を向ける。講義の名前すらよく覚えていないが、前回の講義の際、尖閣諸島について、やや中国よりの目線で話を展開していた教授だった気がする。察するに領土問題における国際法の概念的なニュアンスの講義に違いない。そんな講義を選択したような気がしなくもない。
「ちゃんと聞いてないとだめじゃん。」
「来週、サッカーあるから出れないよう、どうしよう。」
不完全犯罪の理由はこういうことだったのだろうか。完全放棄。ケンは急に身を起こし、僕の方を見つめていた。
「この講義、試験無いって書いてあったよなぁ、一回休むとだめなのかしら。」
悲壮感に苛まれた影響からか、ケンはオネェ口調になっていたが、大学でもサッカーを続けているケンの足元にはシューズと練習着の入ったバックがある。幼い頃から僕も見続けた、小さな紺色のエナメル質のバックはかなり年季が入っていた。入学した時、僕はケンと同じサークルに行ってみたが、あまりのレベルの違いに絶望し、大学ではサッカーを辞めた。ケンは今でも、インターハイ出場やら、なんとかジュニアユース出身などといった肩書きの持ち主達とボールを追っている。
「まあ、これ落としても後期でなにか代わりのやつ取ればいいんじゃね。お前、まだまだ単位余裕あっただろ。」
「そだねぇ。」
気の抜けた返事と共に、ケンの髪は生き物のように、そよそよと動く。昔からそうなのだ。いつからだろうか、ケンが何を思っているか、ちょっとずつ感じ取れるようになっていったのは。

   *

終業のチャイムが鳴り響くと、講義の途中でも学生達は、教授に対して、さも貴方の創りだした有益な時間は終わりましたよとでもいうような、ばたばたとした雰囲気を出す。慌ただしく机上を片づけだす学生達を前に、今日の講義で重要事項であったはずの来週のテスト内容を告げる教授の声は、かき消されていく。そしてあの教授が中国人だということが、本日の講義で判明した。不思議な訛りがあることは感じていたが、まさか国籍が違うとは思っても無かった。
横にいるケンに目を向けると始業の時と一切変化が無かった。顔を机に突っ伏し、右手は直角にペンを立てていた。再び、密室殺人が行われていたようだった。
「ケン、起きろ。」
日本の領海が描かれているレジュメに、右手に握られたケンのペン先が、か細い線で日本列島をプレートのように横断していた。何か意味のあるダイイングメッセージかもしれない。ついでに、ケンは左利きだ。ここまで気付けた僕には、真犯人が分かるかもしれない。
「んあぇ、あらぁ。」
声にならない声をあげて、ケンは顏をあげる。
「あ、終わりましたかあ。お前、今日バイトあるん。」
 ケンはそう言いながら、服の裾で涎を拭うような仕草をした。また後ろの列の女子が、まるで愛らしいものを愛でるようなそんな感情を含んだ、きゃっきゃっとした黄色い声で、こちらのやりとりを笑っている。
「あるよ、今日はこの講義以外無かったんだ。本当は、お前に出席頼んでも良かったんだけど、来るか怪しかったからな。」
ケンはぼさぼさの頭を搔いている。どれだけふざけていても絵になるのだから羨ましい。ぱっちりとした二重、控えめについた鼻、きりっと上がった口角、褐色の潤いある肌に覆われた健康的な顔、仕上げに頭には、剛毛で尋常じゃない量のもさもさとした髪の毛が添えられている。ケンは、眩しい位のエネルギーと整った容姿で、男女問わずに人気があった。
「バイト三時入りだからなあ、つーか、ケンは、この後授業あったんだっけ?」
「いや、次の講義は、休講になったよ、火曜日は授業それだけだわ。」
何のために学校きたんだよ、そう僕が呟きながら席を立つと、ケンは癖だなあとよくわからない返事をしながら背伸びをする。僕らは出席カードを一番前の離れた教壇まで提出し、教室を後にした。
教室を出ると、人の多さに辟易する。新学期が始まって間もないこの期間は、校内が人で溢れかえる。いわゆる「要領が良い」学生達の目的は、初回講義のほとんどに行われるガイダンスを聞くこと。初回の講義で、出欠確認がある講義かを確認し、テストの日程など重要事項の確認をし、資料をくれたり、代返をしてくれたりする、友人という名の便利な学生がいるかどうかを確認している。試験の内容を掌握することではなく、結果を達成することを目的とし、初回の講義でその全貌を掌握しきる。「要領が良い」人間というのは、本当に抜け目ない。「要領が良い」という言葉を大学に入ってから何度も耳にした。「ノリがいい」や「ちゃらい」「おしゃれ」そんな言葉と共に並ぶ、そんな言葉を、僕はどうも好きになれない。というか、僕はそんな学生らしい学生には、なりたくてもなることができなかった。友達と呼べる存在も、相変わらずケン位しかいない。
「多いなあ、今年も新入生。」
隣で歩くケンが不意に素直な感想を述べた。僕の考えが、いかにひねくれているかをケンといるといつも気が付かされる。
「まあ、この時期だしね。」
「いいなぁ、俺まだ新入生に見えるかな、新歓とかまたしてみてぇな、タダで飲み食いできてさぁ、あんときすっごい幸せだったなぁ。」
ケンは新入生の時、ひたすらにサークルの新入生歓迎会(通称:新歓)に参加していた。あらゆるサークルに彗星の如く出現をし、校内でのネットワークを驚く程のスピードで広げきった。ケンと一緒に歩いているとよく分かるのだが、数分に一回は、必ず僕の知らない誰かに挨拶をしている。気が付いた時には、現在のサッカーサークルに所属していた。おそらくケンは、いい場所を探し当てたのだろう。それでも、完全にそこに所属している訳ではなさそうだったが、ケンならどこだって愛嬌のある姿でうまくやれる。
「学食いくかあ。」
ケンがそう言いながら僕の方に振り返る。んー、と僕は声に出して、考えてみた。
「なんかおいしいもの食いたいけどな。」
大雑把な僕の注文に対し、ケンは本当に考えているのかどうか疑わしい位わざとらしく、固く腕を組み、んー、と声に出して考えている。
「それじゃあ学食にいこう。」
結局、僕等は学食へ向かう。まあ、学食は美味しいから良いんだけれど。

   *

「そういえば。」
学食はぴかぴかと光を纏った新入生で賑わっている。まだ大して仲良くも無い大学生達が、必死に居場所を作ろうとしている様子が窺えた。僕は日の当たる窓際の席に着くなり、ケンに気になっていたを聞いてみる。
「今日エリちゃん来る日じゃなかったっけ、お前。」
おっ、という顏をする。ケンの瞳は黒目がとても大きく、今日もきらりと輝いている。
「ばれちまったか、くそぉ。」
「いや、前から散々騒いでたじゃん、確か、今日じゃなかったっけ。」
「今晩ですね。新幹線でこちらに来るそうですよ。」
なぜ、ひそひそ声で話す必要があったのだろうか。僕の耳元に、変に顏を近づけてきたケンを追い払う。
エリちゃんは、ケンが片足を地面に着けて告白をした、あの晩のお姫様だ。逆光で顏こそ見えなかったが、後日、学校ですれ違った彼女は清楚という言葉がうってつけの控えめな女性であり、魅力的な女性だった。形容するのは凄く難しい、確かに容姿は可愛かったのだが、それと同時に凄く儚げだった。(儚いなんて言葉、口に出したことない)ケンの彼女になったと知るまで、自分の通う学校に彼女のような女性がいることを意識したことが無かった。エリちゃんは隣のクラスの女子で、ケンにいつ知り合ったのかと聞いても、「前世だ」とか「実は初対面だった」などと、ごまかされ、結局ケンに彼女ができたという事実だけが残った。
とにもかくにも、ケンとエリちゃんは、とてもお似合いだった。
「よく付き合ってられるよな、お前ら。場所も学年も違うのに。」
大学とはホントに満ち溢れている場所だ。特に僕らのような田舎から上京して都会の大学に来た人間からすると、夢のような空間だと思う。新しい生活は、新しいものだけで構成される。生活や人間関係も、全て一新される。そんな中、ケンはエリちゃんと変わらずに付き合っていた。
「愛だよ、愛。」
ケンはそう言うと、僕の目の前に置いてある唐揚げ丼の、一際大きな茶色の塊をひとつ取り上げた。僕はおかずの四分の一を失い、残された三つを何が何でも守り抜いて、大切に食べてあげようと思った。
エリちゃんは変わらず、僕らの地元にいた。僕とケンが浪人した一年間、公園で鳩を眺め続けている間に彼女は地元の国立大学に進学し、着々と人生を歩んでいた。ケンが東京の大学に決まっても、ケンの口から遠距離などという言葉は聞いたことが無かった。上京してからもケンは満ち溢れている様々な世界に触れていたが、昔からよく見ていたケンの瞳は、今日も変わらず黒く、真っ直ぐな輝きを放っている。
―結婚を前提にお付き合いすることになった、どうしよう、俺、やっぱり銀行員だよ。
あの晩、ケンは僕にそう言った。まるで初めからそう決まっていたかのように。
「ここ、いいですかぁ。」
いきなり後ろから聞こえた女性の甘ったるい声に、僕は我に返る。振り返るといかにもな、大学生の「群れ」が立っていた。男女比が均等で、全員揃って髪色は茶色だ。ケンがどうぞどうぞと人懐っこい笑顔を浮かべ席をずらし、長いテーブルの一部を開けた。窓から差し込む暖かな光が、彼らの髪を一層眩しくさせ、髪の一本一本が生きているかのように透明に光り、蠢いている。
「あ、よー、が。」
熱々の唐揚げを頬張りながら、ケンは自分の注文したラーメンのスープを飲んでいる。僕の愛でていた唐揚げは、四つから、いつの間にか二つになっていた。隣に座った「群れ」が、どっ、と大きい笑い声をあげる。僕は減ってしまった唐揚げ丼と、うるさい群れを交互に眺め、溜息をつきそうになった。
「陽が、もうすぐ帰ってくるよ。」
「え、お前、あいつと連絡取れてんだ。フェイスブック?」
 僕は最近、高校の時から愛用していたぱかぱかと開く携帯を、スマートフォンへと買い換えていた。決して先行する技術のようにスマートにはなり切れず、SNSの普及についていくので精一杯だった。平成生まれで、情報社会の中で育ったゆとり世代と揶揄される若者の中で、僕という存在は、更にそれより下の方に残された人間のように思えた。
「いや、海外でもラインは使えるよ。」
あ、そうなんだと僕は納得したように呟く。連絡を取れることは知っていた。それでも大学に入学してからは、なんとなくだが、陽とは連絡を取ることは憚られた。もう三年以上、僕は陽と会っていない。
「でもすごいよな、ドイツだぜ、ドイツ。俺、ソーセージしかわからねぇなぁ。サッカー見に行ったりしたんかなあ。」
「研究で、忙しいんじゃね。」
「陽、すげーよなあ。」
僕らが一足遅く、陽に追いついた時には、陽はもう歩みを進めていた。僕らが上京して、二人で唐揚げを分け合っているこの瞬間も、陽は、ドイツにいる。当然、理系の学部だった。学部の名前はケンが言っていた気がするが、よく覚えていない。
陽は変わらず大学で優秀だったらしい。自身の研究の関係で、単身ドイツへの留学を決めていた。これは僕も親伝いに聞いたことだった、一年遅れで、ケンと共に上京し、引っ越しを済ませ、大学にも慣れ始めた頃には、陽はもうとっくに日本にはいなかったらしい。
「あいつ、どんどん凄いとこいくんかな。」
僕は自分が急速に縮んでいくような、それでも決して嫌な感情は無い、不思議な気持ちになる。隣で、耳障りだった男女のグループの馬鹿笑いが聞こえる。いや、ひょっとすると耳障りではないのかもしれない。
「久しぶりだな、三年ぶりかな、帰ってきたら三人で飲もうな。」
ケンは笑顔を浮かべ、入学式前夜の子供のような顏をしていた。そうだ、僕たちは陽と三人でお酒を交わしたことは無い。陽が帰ってくる、そのことだけを考えると、僕の気持ちは、ほんのりと暖かくなる。隣の笑い声がまた湧き上がる。その笑い声は案外、心地良いものなのかもしれない。

   *

学食を出ると、ケンとは校門で別れた。んじゃ、サッカーした後、愛を育みますわ、そう言って背中を見せたケンの後ろ姿は、昔からよく眺めていた背中だった。僕はいつも、あの背中を見続けた。
ケンと陽。決して追いつくことは無い、二つの背中。
線路沿いの遊歩道は、色の無いビル群の傍らで、申し訳ない程度に茂った緑の合間を潜り抜けた木漏れ日が差し込んでいた。白い光が散りばめられて照らされた道は、はっきりと、明暗をつけ、道を示す。僕の歩む道が、光に包まれている。すうっと、僕の耳元で音を立てていくような心地の良い風が、次々に横顔に触れてはまた離れていく。

黄ばんだ歯 
「南高なんてどうだい。あそこは最近、勉強に力を入れてるぞ。それに、サッカー部もあるし、どうだ。」
昼間なのに、いつもの教室には生徒がいない、この奇妙な空間に入ってから、三十秒もしないうちに勧められた高校は、僕とは一切関係が無いと思っていたレベルの高校だった。三者面談の為、仕事を午前中で切り上げた母親は机上に乗っている、資料を解読するのに手一杯だ。開け放たれた窓から、どこか懐かしい夏の終わりを告げる独特の香りと、吹奏楽部の演奏とが混ざりあって、僕に入り込んでくる。演奏は廊下で待っていた時から、同じ箇所で必ず止まり、盛り上がりきらない。
その繰り返しが、すごく、すごく、うっとおしい。
「はあ、そうですか。」
母親は片手に僕の成績表を持ちながら、生返事をする。あんたの進路でしょ、あんたが決めなさい。そう、心の中で言われた気がした。
「第一高は、難しいですか。」
僕は躊躇わずに、地元で最も難易度の高いと言われている高校の名前を出した。担任は目を逸らし、僕のクリーム色の成績表に目を向けた。お母さん、どうぞ、とお茶を飲むように勧めている。使い方はよく分からないが、お茶を濁しているとは、まさにこういうことなのだろうか。
「あぁ。そうだな。第一は難しいかもしれないな。今年は更に難化傾向があるから、ちょっと厳しい戦いになるかもしれないぞ。」
ああ、なんだこいつ、喋り方が違う、誰に向けて喋ってんの、いつものはっきりとした、断定的なモノの言い方はどうしたんだよ、僕は心の中できっちり全て言葉にして、その後、なんだかすっ裸で、賑わいのない校内を叫んで走り出したい気分になった。
「でも、点数はいけるんですよね。」
担任は苦苦しい顔で、僕等の学習机を綺麗に四つくっ付けた上に、並べられた多くの資料の中から、僕の通知表を手に取る。時折、口元から覗く歯が黄ばんでいるのが見えて、気味が悪い。
「まぁ、確かに、最近の順位の上がり方は凄いと思うんですよねぇ。本当によく頑張っていますよね。でも、それまでの内申点が、やっぱり、どうしても、点数だけで判断するのは難しい所がありますからねぇ。」
担任は、どうやら僕ではなく、母親に話しかけている。僕ではなく、母親を諭すように、僕に現実を理解させろ、今度は担任がそう言っている気がした。その口調が更に、僕をまごつかせた。高校受験というのは、テストの点数だけでは決して判断はされない。それと同時に当然、普段の授業態度や、素行も評価対象となり、内申点として評価される。僕の通知表は、美術が辛うじて人並以上の数字で、あとの教科はもはや墜落寸前。母親の視線の先には、恐ろしい程の低空飛行を呈する数字の羅列が並んでいた。
僕が勉強を家庭でし始めたのは、中学三年生の春の時。中二病と共に、勉学こそが全てであるという謎の病を併発していた。最後尾から一気に優等生を、追い抜く快感は僕の病の進行を加速させ、半年前は落ちこぼれだった僕の成績も今では、前から数えた方が早くなっていた。
僕は、自分がなんだか特別な存在になれた気分だった。丑三つ時(午前二時くらい)まで古文を読み込んだりして、そんな時間に窓を開けては、夜遅くまでこんなに勉強をしている自分に酔いしれつつ、夜空をうっとりと見つめ、宇宙の大きさについて考えていたりもした。数年後、実はその感覚が、思春期にはよくあることだと知った時、恥ずかしい思いをすることになるのだが。
「え、なんで。ぼく、試験で合格点取れますよ。」
思ったことは口に出ていた。担任は眉間に皺を寄せ、しかめっ面をしている。僕は、この半年、狂ったように勉強に興じていた。その辺をのんきに歩いている同学年の中学生より、図形の角度を発見することができるようになり、物語の趣旨を抑えることができるようになり、英語のアクセントが文のどこに付くのか分かるようになり、歴史の年号は人類誕生から平成のつい最近の出来事まで唱えられ、化学反応の結果、溶液が何色になるのかを知っている。
つい半年前、僕が授業中わかりませんと堂々と馬鹿である証拠を述べ、クラスを沸かせた時に、嫌な笑みを浮かべ、僕を鼻で笑っていた同じクラスの生徒会長も、今回のテストの結果では、僕に話しかけてこなかった。後々、噂で聞いた点数は僕よりも随分と低かったらしい。
でも、なぜ、彼は良くて、僕は駄目なんだろう。いいや、そんなことは多分、もう思ってない。普段から一生懸命できない僕は、どうしてこんなに駄目なんだろう。そう感じながら、教師をただの生物の顏として捉え、皺が寄ったりする様子や、髭の剃り残しを発見しては、何の感情も無く、ただそれをつまらないものを見るように眺めていた。
うっとおしくて、とてもいやなかんじ。
「なんか嫌な感じなんだね、受験って。」
今度も口に出てしまった。母親が、机の下でこつんとつついた。
ただぼんやりと眺めていた担任の顔色が、どんどん紅潮していくことに気付く。親がいることを理由に大きな口を叩けるのは今しかないし、話を聞く度に強くなっていく失望感は、僕の気を更に大きくさせる。
「良い高校に行きたくて、一生懸命、勉強したんだけどなあ。」
「そうだね、最近は本当にすごいよ。」
それっきり、担任は口を閉ざしてしまった。だけど、お前は駄目なんだよ。曇った低い声で、頭の中に直接、そう呟かれた気がした。気味の悪い歯は、薄暗い紫色をしたさらに気味の悪い唇に収まっている。僕はもう考えることを一切やめた。もう言いたいことは言ったし、これ以上、仕事を抜け出して来てくれた母親に、迷惑をかける訳にはいかなかった。
ただ、僕は、自分という人間の底をはっきりと見てしまった気分になった。僕はこういう人間なのだと、そしてそれは普通の人の間では通用しないのだと。それまで勉強をしていなかった、常に頑張ることができなかった、それが自分で、所詮そこまでの人間なのだ。常に優秀な人間には、決して、僕なんかは敵いやしない。優れている人間は、それ同士で仲良くやっていけばいいんだ。自分は、どうやら違うらしい。
それから、母親と担任が適当に話をしている様子をまたぼんやりと眺めた。僕はどうやら志望校の一つ下の高校を受験することに決まったらしい。ほとんど僕は喋らなかったが、そんな雰囲気になっていったから、母親と担任が話すのを、ただ時間が過ぎるのを待つように聞いていた。受験はもうどうでもいい、面談なんてどうでもいい、そんなことより、自分は「駄目」なのだから。それだけは、よくわかった。
開け放たれた窓から、吹奏楽部の演奏がよく聞こえる。
ああ、まだ繰り返してる。いつまで経っても、完成しない。

   *

三者面談を終え、教室から出ると、ちょうど隣のクラスから陽が出てきた。
陽の担任は教室から出て、親しげに、陽を交えて、陽の母親と賑やかに談笑をしていた。陽は小さい頃からそうだったが、大人と接するのが凄く上手い。どんな大人に対しても、会話を弾ませ、好印象を与えることができる子だった。部活の顧問とも、親しげに話している瞬間を何度も見たことがある。陽は、大人と自在に空間を作りだすことができた。顏を合わせ、僕等は同時に、にやつく。親と一緒にいる姿をお互い見せ合ってしまう、それだけでなんだか可笑しい。自然と、陽の母親とうちの母親は一緒になり、僕等はその前を二人で並んで歩いた。面談期間中は午前中のみ授業で、午後は面談以降、下校だった。僕らは静まり返った廊下を、なるべく音を立てない様に移動する。時折、陽の栗毛の髪色が、夕日に照らされ、きらきらと反射をしているようだった。背丈は、この頃、まだ僕の方がちょっぴり高い。
「陽、第一うけるの。」
昇降口で、上履きから履き替えながら、陽にそう聞いた。陽の成績は優れている。入学当時から優等生だ。
「いや、うけねーよ。東でいいでしょ。」
あまりに当然のように言う陽の口ぶりに、僕はひどく驚いた。陽の肌は中学の部活動を引退した今でも、浅黒く健康的な色をしている。
「なんでなん?陽なら、内申もテストも大丈夫じゃん。」
「いや、別に試験は余裕ってわけじゃなさそうだし、それなら確実なところでよくね。それに東は文化祭、龍を造るみたいで楽しそうだし、サッカーも強いし、ついでに、将来、貼れるテレビ開発したいしな。発明家。」
 発明家になるには高校はどこでもいいのだろうか。陽が言うなら、そうなんだろう。
「おお、陽は発明家になんのか。」
校門から出ると、吹奏楽部の演奏はまったく聞こえない。
「だから一緒に東行こう。たぶん、ケンも受けるって。あいつは東も受かるかわかんないけど。三人で一緒にサッカーしよう。お前も、東なら余裕だろ。」
そう呟いて、こちらを眺める。夕方の西日が、囲まれる山々の、更に遙か高い所で、眩しく紅く染まり輝いている。
そう言った、陽の顏は逆光でよく見えなかった。ただ、陽の姿は眩い光に包まれていて、僕には、確かな道のような存在に思えた。
勉強ができる人間、スポーツができる人間、誰からも愛される人間。たくさんの人間がいる中、陽はその全てを満たし、その全てに属さずに、生きているような気がした。
僕は、その時、救われてしまったのだ。いとも簡単に。できることなら、陽と、そうしてついでに、ケンとも一緒にいたい。そう、はっきりと願ったんだ。



外は土砂降りの雨が降っている。七月の雨は突然で、どんよりと重い雲は突然どこからか音もなく、空に現れた。昼間の雲ひとつない青空が嘘のように思える。この時間にもなると、店内に人は少なくなってくる。カフェという飲食業は朝から昼頃にかけて、とても忙しい。いつも決まった時間にコーヒーを飲みに来るお年寄りもいれば、ランチタイムにはたくさんの会社員が押し寄せる。
大学の果てしなく長い夏休み、僕は変わらずここが好きだった。学校から、緑色の汚い液体に満たされた堀とそれに並走する線路を挟んで、反対側のカフェ。カウンター内にいても窓から僕の大学が、そのすぐ前を走る電車の向こうに見える。薄暗くなってきた空に銀色の無機質なビルが、人工的なものだと言わんばかりにくっきりと浮かび上がる。いつも授業が終わってからバイトに入るので、ピークは過ぎた夕方から閉店までの時間で働くことが多い。大学の長い夏季休業、講義は無かったが、いつも通りのシフトで、夕方から僕は働いていた。
時刻は七時を廻る。店内には数名の客と、僕と一つ年上のバイトリーダーしかいなかった。最後にアメリカンを作ったのは、一時間も前だった。
僕はカウンターの向かいに掛けられた時計を眺めながら、コップの底に付いた薄らと広がる茶色い染みと格闘していた。泡立てたスポンジに額から汗が零れ落ちる。
「今日は、いつにも増して来ないね。」
僕より二つ年上の齋藤さんは、レジの中のお札を手慣れた手つきで数えている。
「雨ですしね、今日ははやく帰れそうですね。」
「助かるわ、帰って提出したいイーエスあるんだよ。」
イーエス。イーエス。心の中でちょっとだけ唱えてみる。エントリーシート。企業へと学生から発信する、最初の面接への道。僕にも半年後には関係する言葉なのかなあ、とちょっとだけ憂鬱な気分になる。
「お忙しそうっすね。やっぱり、まだ悩んでるんですか。」
返却棚に、お湯と共にホットを頼むお婆ちゃんが、トレーを持ってきた。今日は少し帰るのが早い気がする。ありがとうございますと、僕は笑顔で応対をした。とっても素直な感謝の気持ち。
「そうだね、やっぱり最後まで悔いは残したくないからな、ちょっとでも気になる所があれば、話聞きにいってみたいんだ。」
そう言って、パチンと音を立てて最後の千円札を弾いた斎藤さんは、すごく大人だと思った。
僕は、まだコップについた染みが気になっている。
齋藤さんは、僕の大学から堀と線路と通学路を挟んだ、向かいにある大学院の人だった。つまりは、このカフェのすぐ真横、隣の学校の人だった。四月も終わりの頃、斎藤さんに内定が出ていたことは、店長伝いに聞いている。
齋藤さんはいわゆるできる人だった。仕事は懇切丁寧で、お客様への対応の仕方も社員のそれと比べても遜色ない位だ。いつか、彼の少しふくよかなお腹を触ってくる無礼なお客様がいたが、斎藤さんは満面の笑みで最近食べ過ぎちゃってと言いながらに、お客様に追加オーダーを勧めていた。齋藤さんは僕も含め、バイトの皆からも厚く信頼されていた。
そんな齋藤さんが、とある食品メーカーの研究職に内定をもらった時には、僕も幸せな気分になった。同時に、なんだか、斎藤さんが遠くにいってしまったような寂しい気持ちにもなった気がする。
「でも、終わりが見えないよ。結局、今んとこに行くことになるのかな。そろそろ研究の卒論もあるし、潮時だろうな。」
齋藤さんはそう言いながら、今度は小銭をカウンターに入れ始めている。
「売上悪っ。」
 夕方の様子から見ても、そんなに売れた日ではなさそうだった。
「午前中もそんなにお客さん来てなかったんですかね。」
なんだか苦しそうに溜息をつく齋藤さんはどこか、大人だった。たかがアルバイト先の一日の売り上げが悪かったくらいで、こうも一喜一憂できる人は、やっぱり、なんだか、できる人なんだろうと僕は思う。
ああ、コップの染みは全然取れやしない。

   *

十時をすぎてから、店の看板を下げた。最後のお客さんは閉店時間の三十分も前に、雨が止んだタイミングを見計らい、外へと駈け出していった。僕と齋藤さんは、少し早めに店内を締め始めている。
「ソフトクリームやっていいですか。」
「あー、よろしく。」
僕はソフトクリームの機械の洗浄作業は誰にも譲らない。腰くらいの高さの脚立に上り、マシーン上部の蓋を開けると甘ったるい匂いがする。一日中ぐるぐると回り続けた液体が、なぜソフトクリームになるのか、その謎はよく分からなかったが、閉店後、僕はこの真っ白の液体を上から眺めるのが好きだった。撹拌のスイッチを切ると、純白のとろけた液体が、ゆっくりとその流れを止めて、最後には森の中に佇む湖畔のように、うつくしい鏡面を作る。少しの時間、それを眺めてから、まだ恐らく百回以上はとぐろを巻くことができる液体を、バケツに一気に流し込む。
「おっけ、排水溝終わったよ。」
「こっちももう少しです、アルコールどこでしたっけ。」
齋藤さんが、僕にアルコールを渡してくれる。銀のドラム状の筒はその白い液を吐き出し、新しい布巾で隅々を拭き取ってやると、金属本来の輝きを取り戻した。ここで過ごす時、最も好きな瞬間だ。
「今日早いっすね、まだ十一時になってない。」
二人で、店内の電源という電源を落とす。カフェ豆を挽くもの、蒸気でミルクを温めて泡立てるもの、ソフトクリームをぐるぐる回し続けるもの、たくさん電源で溢れていて、いつも、僕は切り忘れがないか心配になる。エプロンを外して、僕は斎藤さんの着替えを待つ。うちのカフェは店内も狭いが、その奥にある事務所はもっと狭い。畳三枚を真っ直ぐ並べたようなスペースだと、着替える場所は交代で使わなければならなかった。
「お前もあと半年後だなぁ。」
粗末な薄いカーテンに仕切られた向こう側から、齋藤さんの声がする。
「なんかやりたい仕事とかあんの。」
「んー、特に。僕、文系ですし。みんなやっぱり営業からスタートなんですよね。」
齋藤さんのベルトの金属部分が擦れる音が聞こえる。なんだか急いでいるような、かちゃかちゃ、という音。もう少しだ。
「今のうちから、しっかり考えておいた方がいいよ。」
今までの齋藤さんの言葉のようにはどうしても聞こえない。それは斎藤さんが内定を持っているからだろうか。妙な焦燥感を持ちながら齋藤さんの言葉は、仕切られたぺらぺらのカーテンを突き抜けて、僕に届く。
「考えておくって、まだなんも分かんないですよ。」
カーテンが開け放たれた、私服を着ている齋藤さんはいつも通り少しふくよかで、やっぱりどこか、大人びていた。僕の目にはそう映ってしまう。
「結局、俺も分かんないまんまだから。」
齋藤さんはそう言いながら僕に笑顔で、よろしく、と店舗のカギを預けた。お疲れ様ですと僕はそう呟いたが、斎藤さんは急ぎ足で出ていってしまった。齋藤さんは大丈夫ですよと、僕はそんな無責任な言葉を、言いかけそうになったが、寸前で止めた。
静まり返った店内で、物音がする。一定間隔で震えるこの音を思い出し、あわてて鞄から最近買ったスマートフォンを取り出した。
「着信:毛」
映し出された情けない画面を見て、ああと思い出したように、明るい気持ちになってしまう。今日はケンの家の近くで約束があった。久しぶりだな、何を話そう。陽と会ったのは、高校の卒業式が最後だった。三年と半年。
ケンと一緒に、僕はずっと待っていたんだよ。

   *

雨上がりの、じっとりと湿る道を早足で歩く。カフェはきっちり施錠をして、防犯システムを作動させてきた。店の外に出た時には、もうすっかり雨は止んでいた。夏の湿度の高い夜、ぼってりと蒸す空気も感じさせない程に、僕の足取りは軽い。時刻は十一時を少し過ぎた頃だったが、電車を降りて改札に向かうと仕事帰りのサラリーマンで溢れかえっている。帰路を急ぐ彼らの顏は、すごく平面的な表情に見える。なんで、あんな表情になってしまうのか、僕には、まだ理解できない。
「いつもの店、いつものいつもの。」
それだけを告げて、たったの五秒で電話は切られた。ケンの下宿がある、この駅では、僕はケンと一回しか飲んでない。そこはケンの中でいつもの店になったらしい。ケンの家に向かう途中のどこの駅でも見かける大衆居酒屋。一年生の時に、中々バイトの面接に受からなかった僕が、とうとうカフェに受かったと報告をすると、お祝いすると言って、ここにケンに呼び出された。支払いは、来月から僕のバイト代が入るという理由で、僕が全額出したことを一年以上経った今でも恨んでいる。
「っらっしゃいませーぇ。」
店に入ると髪を束ねた、僕より幾分か年上の女性が笑顔で出迎える。家電量販店の店員とまではいかないが、居酒屋店員の挨拶は、雰囲気とエネルギーだけで構成されている。ちゃんとした日本語ではないのに、心地良いのは不思議だ。
「男だけで、もう入ってると思うんですけど。」
「ご予約のお客様ですか。」
「いや、あいつら予約してないんじゃないかな。」
女性は僕に靴をしまうように勧め、カウンターの奥でタッチパネル式の機器を使って、テーブルを調べている。あの髪の毛すごい人の所じゃない、奥から若い男の声でそう話すのが聞こえた。
「そこだと思います。」
僕はケンの特徴的な姿に感謝した。両脇にいくつも個室が並ぶ細い道を奥へと案内され、到着した部屋は薄い暖簾だけで仕切られた半個室と名打っている場所だった。ケンが腹を抱えて笑っている。あの髪の毛すごい人が、今日もよく笑っている。
「おぅいー。お、遅かったじゃんー、お前いないと、ひっく、ほっけの背骨取れねーよ。」
ケンは左手に持ったビールを高らかに掲げ、僕を歓迎していた。雨の湿気をたっぷり含み、いつもより爆発している髪の毛に、枝豆がひとつぶ乗っている。
「おー久しぶりだな。」
僕がそう言いながら、鞄を床に置くと、ケンと向かい合うようにして泉がいる。泉は高校のサッカー部で、一緒だった。東京に来てからも、時折、泉とは会っていた。陽はまだ来てないようだったが、僕はとりあえず店員に飲み物を頼んだ。
「バイト、今日早く終わったよ。」
僕はそう言って、ケンの隣に座り、久しぶりに泉と顔を合わせた。
「ほっけ、はやくぅ。」
ケンが甘えた声を出し、僕にほっけの背骨を取るよう催促する。うるせえ、そう呟いて肩をどつくと、ケンの頭の上に乗っていた枝豆がころんと音を立てて、テーブルの上に落ちた。ケンは自分の目の前に落ちてきたそれを見て、指を指しては、また口を大きく開けて笑い始めた。
「なんで、こいつこんな酔ってんの。」
泉は前に見た時よりも、さっぱりとした髪型になっている。最後に会ったのは、年末地元で飲んだ半年前だった。彼は現役で大学に進学していたので、学年は一つ上、就職活動中の大学生だ。だが泉はもう就職先を、四月の中旬には地元の地方銀行に決めていた。泉はいわゆる、優等生タイプで、高校の時から、しっかりとしていた気がする。だから、あんまり僕と、仲が良くなかった気がする。気がするだけで、大学生にもなると、そんな時のことは、どうでもよくなるのだが。
目の前に真横に置かれたほっけを見る。僕等の身分はテーブルの中央に置かれた、この背骨で綺麗に分けられている。
「え、てか、陽は。」
泉がそう言うと、ケンが何か言いたそうな顏をしている。
「ケン、誘ったんじゃないの。」
僕も続けて問い詰めると、ようやくケンはきちんと座りなおした。
「いやぁ、誘ったんだけどさぁ、なんか連絡帰ってこないろ、先月、うぃ、日本に帰るって連絡来てたから、多分もうこっちだと思うんだけどもぉ、ぇっ。」
陽への連絡はケンに任せていた。呂律が上手く回ってないが。
「本当にちゃんと誘ったの、ケン。」
泉が疑うような声で、ケンに尋ねる。ケンは左手にビールを抱えたまま目を閉じている。
「まあ、色々、こっち帰ってきてからも忙しいんだろうな、住むところだって、もう一度決め直してると思うし。」
僕は目の前のかりかりの軟骨に手を伸ばしながらそう言うと、ケンはそれそれと言いながら、手をひらひらさせている。そうか、陽にはまだ会えないのか。膨れ上がっていた僕の高鳴りは、空気が抜けていく風船のように、情けなく、急速に萎んでいく気がした。
「俺と駅前で待ち合わせた時には、もうこうなってたよ。」
 泉はそう言って、ビールを飲みながら目でケンをちらりと見た。
「じゃあ、サークルで飲んできたんだろうな、今日試合の後打ち上げがあるって、言ってたような気がするわ。」
ケンは目を固く閉じて、頭を机に伏せ始めた。うねうねと波打つ髪が、ほっけに触れそうになり、慌てて皿を移動させる。
「泉は最近、何してん。」
僕はようやく泉と話し始めた。少しだけ、緊張する。目の前にいるのは、内定者とやらだ。同じ学生なのだけれど、何か違う気がする。
「いや、もう遊ぶだけ、お前らとも他のやつらとも、どんどん飲んできたいし、大学最後の学年だよ。悔い残さないように遊ばないとなぁ。」
そう僕の目を真っ直ぐ見て、何杯目か分からないビールを飲む泉は、やっぱり少し違って見える。僕は、ビールがまだ苦く感じる。あまり好きじゃない。
「そっか、良かったな。早いとこ決まって。」
「お前はどうするの。もう半年後だぜ。なんかやりたいこと、あんの。」
僕は、再び聞かれたその質問への答えが無いことに気付くと、考えるふりをしながら、ほっけの背骨を取り始めた。ケンと泉は、僕が来るまで待っていてくれたのだろうか、身を開かれ、かちかちになったそれは、防波堤に打ち上げられて、天日干しされた魚のようだ。
「うん。どうだろう。まだなんもわかんないなぁ、とりあえず流れに従うよ。」
なんだよそれと軽く言いながら、拍子抜けの表情を浮かべる泉は、何か言いたそうな表情で、今にも落ちそうな瞼を必死に支えつつ、ケンを眺めている。
「お前ら、変わらねぇよな。」
ケンは寝息を立てはじめていた。泉はそれを確認してだろうか。突っ伏しているケンと、背骨を抜かれたほっけは、くたびれたように静かにしている。
「高校で初めて三人見た時から、お前らなんにも変ってねぇんだろうな。中学が一緒ってだけじゃねぇよ、お互いがお互いのことをさ、ただ尊敬し合ってて。はたから見てて、三人の空間がすげぇ、好きなんだろうなって感じ。今日も、陽がいたら俺、ちょっと緊張してたかもしれねーよ。なんかお邪魔してるんじゃないかってさ。」
突然、何か堰を切ったかのように話し出した泉は笑いながら、枝豆を食べている。泉の頬はうっすらと紅く火照った色をしていた、結構飲んでいるのかもしれない。
「んだよ、それ。」
「いやいや、本当に、トライアングルみたいな。なんだろ、お前ら、三人でみんなどっかしらを、認め合ってんだよ、それがそこにいたらわかんねぇんだろうし、俺が勝手にそう見えてるのかもしれねーけど、多分合ってるよ。」
そう言いながら頭を掻く泉は、中々僕と目を合わせようとしない。泉が恥ずかしい言葉を言ってくれているのは分かった。
しかし、僕は一度でも、そんなことは思ったことが無い。気が付いた時には一緒で、当たり前のように今も僕の隣で寝息を立てているケン。それに、陽は、僕よりも遙か先、違う世界で生きているはずだった。どちらも、どこか近くにいるようで、それでいて、僕からは遠く離れた所に存在していると、感じながら生きてきた。
「本当、お前ら見てるといいなあって、認め合ってさ、ぅぃっ。」
飲みすぎだよお前、僕はそう小さく呟いて、ほっけの身を崩し始めた。なんだろう。僕はケンには敵わない、陽にも敵わない。いや。なんだろうな、ひょっとすると、僕は、それだけでいいのだろうか。

   *

「帰るよ、ケン。」
僕がケンを揺さぶる。頭の上には枝豆が十二粒乗っている。僕と泉は何粒乗るか試そうとしていたのだが、途中で確実に皿に乗ってる枝豆が全て乗ることに気づき、終わりが見えたその遊びは、枝豆三房とちょっと、一ダースで幕を閉じた。
「はぁぇ、おぅ。」
ケンは、いつもの声にはならない声をあげる。
「久々だから、お前んち覚えてねーよ、案内しろ。」
時刻は十二時半になっていた。泉は終電間際、陽に今度飲もうと伝えてくれとそう言い残し、ケンには何も告げず、足早に帰って行った。
「あれぇ、泉は、ってか頭いてぇぞぉ。」
「帰ったよ、俺、今日お前んち泊まっていいんだよな。」
「そすよぉ、ちゃあんとお客様用の布団ほしてきましたからぁ。」
夕刻、滝のような雨が降っていたが、布団を干したのはいつだろうか。今夜はどうやら、固い床の上で寝る羽目になりそうだった。
いつもの肩掛けの使い古したエナメルバックをケンに無理やり待たせ、ケンを抱え込んで、居酒屋を出ると、雨上がりの澄み切った月の光が夜道を照らしている。一筋の雲は昔話の如く、すぅ、と月にかかり、それはなんだか風情があるように思えた。
「雨降った後だから、きれいだな。」
僕がそう呟くと、隣でケンが、きゅんと言った。
「んな、元気あんなら一人で歩けよ。」
「へへ、ほほほ。」
奇声を上げながら千鳥足のケンは、僕の前を一人で歩き始める。
「泉、大分、大人に近づきましたなぁ。」
夜の静寂の中、ケンが呟いた一言がぽつんと零れ落ちる。ケンが眠りに落ちてから、僕は泉と二人で話し続けたが、同じ印象を抱いてることにやはり不思議と安心した。僕はいつからか、ケンが何を考えているか、ちょっとした雰囲気や仕草で分かる様になっている気がする。その感覚は、どんどんと研ぎ澄まされていった。ケンも、僕を分かってくれているのだろうか。
「やっぱ社会人になると変わっちまうんかな。」
そう言いながら振り返ったケンの顏を月が明るく照らす。あの日と変わらない瞳は、今日もやっぱり輝いている。
「どうだろ、みんな大人になってくんじゃね。」
僕がそう言うと、鼻歌交じりにケンは自宅へと向かい始める。その後を付いていく僕とケンの距離はいつも一緒だ。いつも、ケンが少しだけ先を歩く。それは、この先も変わらない。
今日、陽には会うことができなかった。
「陽ってば、なにしてんだろ、な、会えなかったなぁ。」
ケンが僕の心を読み取り言葉にする。僕は泉と話す最中、陽へとメッセージを送っていた。返事こそまだ来ないが、久しぶりに陽に会いたいという気持ちは、ケンも一緒のようだった。
「まだ色々忙しいんだろうな、あいつは。」
僕はポケットの中で握りしめていたスマホを鞄へとしまい込み、前を歩くケンを見る。千鳥足で揺れるふさふさとした頭から、ぽんっ、と音を立てるように枝豆が飛び出し、そのまま、ころり、ころりと、地面へ落ちていく。暖かな月光に照らされた小さな緑色の塊が、あまりにもうつくしく、素敵なもののように思えた。

遠い背中 
 目の前を走る背中が遠い。交錯する二色のユニフォームも気にせず、あの背中を目で追い続ける。陽は僕と同じ高校に通い、同じ部活に入り、本当に同じ試合に出ているのだろうか。そう疑う程に、コート内で陽との距離は果てしないように思えた。
高校二年の夏、僕は相変わらずだった。何事にも頑張ることのできない情けない人間だった。ケンと陽がいるから、引き続きサッカーをして、大して上手い訳でもなく、かといって勉強ができる訳でもなく、ただ与えられた日々を過ごしていた。
今も、まだあの背中を追い続けている。
陽はボールを持ち、ラストパスを出すタイミングをよく窺っているのが分かる。相手のゴールはもう近い。一気に駆け上がる部員達に次々に僕を抜き去り、自分の足がゆっくりと止まっていくのを感じていた。僕はすっかりあがりきった息を整える。相手コートを俯瞰できる中央よりも少しだけ相手よりの位置で、陽の背中を眺めていた。ベンチから監督のラスト二分という、声が聞こえる。練習試合だが、点を取らなければ引き分けで終わってしまう場面だ。足の筋が張り裂けそうなくらい、キンキンと緊張しているのが分かる。
「よーーーーーーーーーーー。」
突然、左サイドから、黒い塊を頭に乗せた褐色の肌の奇妙なやつが、砂煙を上げ、駆け上がっている。陽を呼ぶ甲高い声に、コート内のほとんどの選手が首を振る。
息はまだ整わず、荒い鼓動が、波を打っている。
陽の顏はケンとは逆サイドを見た。ケンの勢いで相手の陣形が崩れる、今なら右サイドが空いている。陽は、泉にボールが出すんだろう、僕がそう思った時、
「ケン。」
陽は、何も言ってなかったかもしれない。でもあの時、確かに、僕にはそう聞こえた。僕の足はもう棒のようになり、地面に吸い付くようにして動かなかった。いや、僕が動く、必要が無いと、そう感じていた。
陽がケンの方も見ずに繰り出された、恐ろしく、鋭いラストパスは低く地面を這いながら何人かの選手の足元をするりと抜け、相手方のディフエンスラインの裏を抜けて、ケンの走る先に空いたスペースに転がり込む。ケンは当然のように、そのパスにきっちり反応して、一気に相手のゴール前まで切り込んだ。相手はおろか、味方も、誰一人としてケンには追いつけてはいなかった。
ケンは、まったく角度の無い場所から、とてつもない勢いのダイレクトシュートを放ち、ゴールネットを揺らした。陽の背中はまだ、前を向いている。僕が見ている、あの背中。ケンは笑顔で、陽に向かって走っている。なんでもない練習試合で、試合を決定づけたのは、完全にケンと陽だった。
ゴールを決めた笛と共に、試合終了のホイッスルが吹かれた。不思議と僕の五感は研ぎ澄まされていた。足は動かすことができない。それでも、鮮明に映るこの景色と、遠くから聞こえる蝉の鳴き声を、いつまでも感じ取っていた。

   *

夕日が紅く、校庭を染めている。試合後のグラウンドは、地面を馴らされていて、均一な模様を描いている。古代文明のように、上空から見たら、何やらメッセージがありそうで、僕はできるだけ高い所からそれを見ていた。
校庭へと降りる階段の途中、腰を下ろして、見下ろすように校庭を眺めながら、スパイクを脱ぎ始める。
「試合終了間際の弾丸ミサイル、キーパー動けず。」
ケンが部室前に落ちていた一度は雨に濡れて、かぴかぴになってしまった新聞を逆さまに持ちながら、僕の隣で嬉しそうに、くだらない記事を読み上げてみせた。
「見たよ、動けなかったな、あのキーパー。」
僕は夕焼けがとても眩しいのを手で隠しながら、そう答えた。山の遠く、ずっと奥の方から差し込む日の光のせいか、いつも見ている校庭も今日は妙に心地よく思える。
あの背中は、まだタイヤをひきずっていた。
相手チームを乗せたバスは、随分と前に学校を出て、部員の仲間も半分以上帰っていた。陽はまだスパイクを履いて、タイヤと校庭を走っている。
「だろぉ。いやぁ、感じたのよ、陽ならあそこに出してくれるだろうなってのが、ぴぃんっと飛んできて、今日の最後は気持ちよかったわぁ。」
「ケン。」
「むっ。」
ケンがばりばりっと、本来の音ではない音と共に新聞を丸めて捨てて、わざと真剣な面持ちで僕の方に顔を向ける。黒目は大きく、どこまでも澄んでいる。
「なんか最近の陽、すげぇよな、なんか、迫るものがあるというか。中学の時より、大人っぽくなったし、勉強も、サッカーもどんどん、すごくなってくってか、よくわかんねぇけど。」
陽は相変わらず、大人と話すのが上手かった。やはり陽はどんな人に対しても好意的だったし、自分の何倍も生きている人たちに対しても、決して臆さなかった。この頃には、はっきりと陽が大人と話す時の世界を、僕には決して作り出せない特殊な空間だと捉えていた。それは小さい頃から感じていた以上のものだった。人当たりが良く、誰からも好かれるような、世渡り上手。優秀で、人として優れているんだろうな、そんなことを思う。
「高校に入ってから、余計、なんかアイツって本当にすげぇんだなって思ったの。」
僕はケンにそう続けた。聞いている音楽が、僕のまったく知らないセンスの良いバンドだということ、私服がとてもおしゃれだということ、勉強ができるということ、サッカーをよく知っているということ、大人と滞りなく会話ができるということ。今まで近くにいて、見えなかったものが、高校という自由な環境で更に感じ取れるようになった。
陽は、完璧だった。僕の狭い世界の中で、その事実だけが、僕の道標のように世界を照らしていた。僕の辿る道を肯定し続けていた。
ケンの視線は校庭に向けられる。僕らは眩しい光の中、懸命に目を凝らして陽を見つめる。
「アイツはすげぇよ。」
今度は多分、真剣な表情できっぱりとそう言い放ち、ケンも履いているスパイクを脱ぎにかかる。眩しい光を浴びているもっさりとした頭を眺めながら、僕はケンの、真剣な声を聞いた。ケン、それは、お前もそうなんだ。僕は恥ずかしい言葉を、頭の中でこっそりと思い浮かべ、もどかしくなった。
小学校の時に、家の近くのサッカークラブを通じて出逢った友達は、同じ中学に入り、高校生でも、こうして共に時間を過ごしている。
ただ、僕は、彼等の変わることの無い、ただそこに在るどこまでも眩い姿に、いつも圧倒され続けている。きっとこれから先も、それは変わらない。
「よーーー、先帰るぞ。」
ケンが立ち上がり手を振って、陽に声をかける。
陽は立ち止まり振り返り、手を高らかに挙げた。差し込む夕日は陽を背後から照らし、足元から続く、その影がどこまでも、どこまでも大きく校庭に伸びている。

○ 


 今日は店内がいつもより賑わっている。常連のお客さんが空席を探すのに一苦労していた。時刻は六時を廻る。外は強い風が吹き、人工的な色の中、唯一浮かび上がっていたはずの街路樹の緑はすっかり葉を落とし、味気ない世界が窓から見える。どんよりとした灰色の重たい雲が、空からのしかかる様子は、あまり見ていてもいい気分にはなれない。
「いらっしゃいませー。」
今日は身を縮こまらせて、店内に入り込んでくるお客さんが多かった。秋も終わりに近づいている。温かいものが恋しい人々の波は、まだ途切れない。
「お砂糖はおひとつで宜しかったですか。」
何度言ったか分からないテンプレートの文句を、僕は今日も繰り返している。レジに立つ、僕の背後には、最盛期である夏を終えた、あのソフトクリームマシーンが佇んでいた。心なしか、静かに動いているように思えたそれに、今日はまだ一度も触れていない。
先週から入った新人の男の子は、まだ注文を作るのに時間がかかる。僕は、ミスが無いかその様子を横目で眺めていた。齋藤さんの大学の後輩だった彼は、真面目でおとなしい、とてもいい子だったが、いわゆる、要領が良くない大学生かもしれない。少し長い前髪は、いずれきちんと短くして欲しいと彼に告げなければならない。
「こっちのボタン押してから、ブレンドをだしつつ、ミルク暖めればいんだよ。そしたら、同時にできるでしょ。」
僕はちょっとだけ申し訳ない気持ちになりながら、彼にそう言うと、彼は、ああ納得という表情を浮かべ、作業に戻った。オーダーを作ることに夢中になり、教えてもらったことへの感謝の言葉こそ無かったが、嫌な表情ひとつ作らず作業に戻る彼の姿はやはりどこか、僕を落ち着かせてくれるものがある。
「お待たせしました。」
新人は、少しぎこちない表情だったが、彼は笑顔を作ることも、同時に頑張っている様子がこちらにも伝わってくる。接客業はおろか、お金を稼ぐという場での会話が初めてのようだった。
「でも、入ったばっかで、いきなりこんな忙しい日に当たってよかったね。これができれば、どんどん楽になってくよ。」
「はい、良かったです。」
人の目を見ずに、俯きながら素直な気持ちのみを述べるだけのその言葉は、何の偽りも、驕りも、たぶん存在しない。
―ちょっと気遣えないやつだけど、良いやつなんだ。頼むわ、面倒ちゃんとみてやってくれよ。
齋藤さんは単位を取り終え、卒業までの半年間、田舎に戻ることになった。バイトを辞め、送迎会も終わったある日、後輩の学生をバイト先に連れてきて、店長に面接の日程を取り付けてから、僕に近づいてきて、そう告げるといつもの屈託のない笑顔で店を後にした。
良いやつなんだ。齋藤さんは、確か、そう言った。
初対面の彼の印象は悪くなかった。伏し目がちに少しだけどもりながら、僕に挨拶をしてきた彼の姿は、彼という人間そのものを表わしているように思えた。長く伸びた前髪、話す時に決して目を合わせない様子、自信の無い声色。その全てが、僕に嫌な印象を与える訳ではなく、自然と僕の中に入ってきたのだ。彼は良いやつ。齋藤さんの言葉が無くとも、僕はそう感じたはずだ。店長は、彼を初めて見た時、一瞬苦苦しい表情を浮かべ、僕に何か意味ありげな視線を送ったが、僕はそれに気付かないふりをした。齋藤の紹介だからなあ、採用を決めた後、頭を掻きながら独り言のように呟いていたのを、僕はどこかやるせない気持ちで聞いていたことを覚えている。そして、ごく自然に僕は彼の教育をする為、最初のシフトを故意に被らせた。大学の生活、休日の過ごし方、好きな女の子のタイプ、色々と彼に聞いてみても、答え以外の答えは返ってこない。当然に僕に対しても、質問はしてこなかった。僕は質問していて、なんだか、自分はひどく性格の悪い人間のような気がしていた。
「ああ、休憩行ってきていいよ、事務所出るとき、ドア締め忘れないでね。」
そう伝えると、彼は少し嬉しそうな表情をしただろうか。そう僕の目には映る。彼は、やはりどこか放っておけない。店内が落ち着き始めた頃、僕は声にならない溜息を一息ついた。
窓の外は相変わらず色が無い。もうすぐ冬が来る。就職活動が始まるまで、一ヶ月を切っていた。不安と、少しだけ期待を交えた僕は変わらずここにいる。
カラン、カラン
「いらっしゃいませー。」
冬を終え、春が来る頃には、今と何かが違うかもしれない。僕は新しい道を歩き始めているのだろうか。
「ご注文お決まりでしたらお伺いします。」
不安は決して嫌なものではない、ただ、僕には、まだ在る。昔見た、あの景色を思い出す。今でも、鮮明に、思い描くことができた。あの光景に惹かれた僕は、未だ、何一つ変わってやしない。機械的に言葉を発しながら、僕は燃える龍を、ケンを、そして、陽を感じる。あの熱は、僕の中で脈を打つように、熱く、燃え上がっている。
「かしこまりました、お砂糖はおひとつで宜しかったですか。」
歩む道はどこまでも広く遠いが、僕には見えている。はっきりと見えている。

―うつくしい。お前、そう思ってただろ。

僕の目の前で、黒いブレンドは、それは、とてもとても、白いものと混ざり合い、ゆっくりと色を変えて、完成していく。

   *

いつもより、この道を歩くのが遅くなってしまった。バイトを終え、僕の住んでいる古いアパートに向かう最後の直線、両脇の多くの一軒家から暖色の灯りがこぼれ落ち、道を照らしている。等間隔に置かれた外灯は気にならない位、その明かりは明るく、安心できるものだ。大通りに平行するように伸びる細い路地、古めかしい木造の二階建てだったが、家賃の割に、内装はそれでも改装工事をしっかりしてくれていた様だった。小さなキッチン、一緒にくっついたお風呂とトイレ、六畳一間のこぢんまりとした部屋。周辺は、閑静な住宅街、休日には向かいの家に住んでいる小さな姉妹が、道路で遊んでいるのが窓からよく見える。
今日は、やはり最後まで客が途切れなかった。帰り際、できれば髪を切って欲しい、最低でも目が見える位には、店長からそう言われている、僕はちょっとだけ勇気を出して、そう告げると、彼は、
「分かりました、切ってきます。」
ただ、それだけを口に出した。突然、真っ直ぐに僕を見つめた瞳は、どこかで見たことがある気がする。何回か彼と時間を共にしていて、彼への印象はより確かなものになった。彼は一生懸命やっているし、そして多分、これからも一生懸命にやることができる。無愛想で、暗くて、接客業には向いていないんじゃないかと懸念しているであろう、一時間に一回は煙草を吸いに出てしまう店長よりは、僕は彼のことを信頼できるようになるはずだ。不思議とそんな直感が胸をよぎった。
リズムよく音を立てて、アパートの階段を上がる。明かりのついていない、暗い部屋に入るとただいまー、とわざと元気を出すように言ってしまう、その癖はいつまでも治らなかった。
「いって。」
暗がりの中、足元に置いてある親からの食料品に躓いた。両親から送られてくる、米や缶詰などの救援物資は、とても助かる。気が向いた時に送ってくれるこの荷物を受け取る時には必ず、自分はまだ学生なのだとはっきりと自覚する。まだ自分の足では立てないのだ。ぼうっという、脳に直接響くようにじんわりとした低い音を合図に、白い人工的な明かりが部屋を包む。机の上に無造作に置かれた、就活の資料が目に入り、せっかく一日が終わったのになんだか、疲れが増すような思いがした。時計は十一時を過ぎた頃だ。
上着を脱いで、ベットに飛び込んでしまうと、ゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた。それは不思議な感覚だった。堕ちていってしまう、そう感じていてもどうにもならない、急速に包まれた眠気で、僕はそのまま眠りに堕ちてしまってもいいかなと思う。 
壁に掛けられた時計の音が聞こえる。こつ、こつ、こつ。僕はそのリズムだけを、目を閉じて感じていた。何分経っただろうか。何日も洗っていない枕から、僕の匂いがする。どうやら僕らしい、その匂いは、人が嗅ぐとよく分かるのだろうか。こつ、こつ、こつ。
ヴー。ヴー。
突然、音が変化する。心地の良い空間が、嫌な振動によって、切り裂かれてしまう。落ちゆく意識の中で、その不快さに苛立っていく。
ヴー。ヴー。
鳴りやみそうにないその様子が、ただなんとなく嫌だった。僕の意識を、現実へと戻すことがここまで億劫になることがあるだろうか。僕は渋々、重たい身体を持ち上げると、乱暴に鞄から震源を取り出す。スマホをスライドすると、「着信:母」の表示、出ない理由は、特に見つからなかった。
画面に指を滑らせて、耳元へ当てる。
「もしもし。」
 僕の声色は、不機嫌そうだったかもしれない。
「何、どうしたの、こんな時間に。」
「ああ、やっと、でた、今、大丈夫?」
 電話口の母親の声は、いつもとは様子が違う。
「ああ、うん、もう家だよ。どうしたん、こんな時間に。」
 短い沈黙が流れた。
「陽くんが死んじゃった。」
こつ、こつ、コツ。いきなり放たれた乱暴な言葉に、僕は驚き、耳元から少しだけスマホを離した。手の中の母は、どうやら嗚咽をあげているようだった。
「なにが。」
声が震えている。喉は乾き、自分の声かと疑いたくなる程、言葉を出すのが下手だった。
「あのね、落ち着いて、聞いてね。よ、ようくんが、陽くんが死んじゃったんだって。」
 陽が、死んだと言っている。
「えっ、何言ってんの。」
心臓の音か時計の音か、もう分からない。壁が、天井が、世界が、僕を追い詰めるように圧迫してくる。息苦しい。
「昨日ね、発見されたんだって。」
「なに。」
「自殺したんだって、日本に戻ってきて、疲れてたみたいで、さっき陽君のお母さんから電話もらってね。」
こつ、コツ、コツ。次第に電話口でしっかり喋り始める母の声と同様に、安物の時計から時を刻む音が、僕にどんどん迫ってくる。僕はもう母と話す気が起きなかった。
「ど、どうして。」
 辛うじて、僕から発せられた言葉は、取り乱していても、どうやら一番聞きたいことだった。母親はしばらく無言で、伝えるべき内容を伝え始める。僕はベットの向かい、テレビ台の上に飾ってある高校の卒業式の写真を見ていた。ケンと陽が僕の隣で、着慣れていないスーツに包まれながら、三人で満面の笑みを浮かべている。
 コツ、コツ、コツ、静まり返った部屋で、当たり前のように、リズムを乱すことなく、時を刻んでいるこの音。決して緩めることも無く、正確に奏でる、それがどこまでも、恐ろしくなる。
「お葬式の日程なんだけど…。」
それから母親は僕に葬式の日程を告げ、その日は戻って来て、とそんなような内容だった気がする。気を落とさないでね、そんな母親らしい台詞も言っていた気がする。どれくらいの時間、何を言われたのか、僕にはもう理解することができなかった。何も、見たくない。聞きたくなかった。
電話を切って、部屋に取り残された気がした。僕は陽にスマホで最後に送ったメッセージを見た。一か月程前に、ケンと泉と飲んだあの日。僕はメッセージを陽に送っていた。
―久々に会いたい。陽、お前、どこにいるの。
ただ、その一言。僕の画面に残る。もう、堕ちてゆく意識を止めることはできない。枕からする嫌な匂いに包まれながら、不快な時計の音と共に、僕は暗闇に引き込まれていく。

麩菓子のように甘く

「日本は民主主義なんだよ。お前分かってんのか。」
明日は高校生活最後の文化祭だった。父親がくだらないとけなすであろうバラエティ番組を見ながら、食べカスを服に付けて麩菓子を食べている、僕への不満の言葉は止まらない。
「ミンシュシュギ。」
僕は言葉を繰り返す。麩菓子はふんわりと、そうして、甘い。
「そう、実力社会なんだよ、競争に勝ち残っていけないぞ、そうなんだよ、そうなんだ。」
麩菓子は僕の口に入ると、舌の熱で滑らかに溶けていく。僕の中には、甘い、という感覚だけ残った。僕は僅かに、うんと、呟く。
「だから、勉強しろよ、ちゃんと、なあ。」
酔っぱらい。頬を染めた父親の言葉は、どこか重みがあった。今日は言いたいことを言っている。そうはっきりと僕に伝わってくる程に。高校生活最後の試合を終えて、部活動も卒業し、勉強だけに集中すべきこの期間、麩菓子を食べて、ソファに座り込んでいたら、確かに父親は心配になる。父親の言葉には、僕の知らないことが含まれている。僕を含め、兄と姉を育て上げたお父さん。この日の言葉が妙に重く、僕に届く。高校生の頃には、少なからず、僕は明確にどこがという訳では無かったが、感覚的に両親を尊敬している気になっていた。
「頑張りなぁ、なあ。」
父親は虚ろに開いた目を何度も閉じては、同じ言葉を何度も繰り返す。多分、こうなるまでお酒を飲まなければならないことが働くということには含まれるのだ。大人ってつくづく、大変だなぁって思う。
「はーい、頑張るよん。」
僕はそんな風に、生返事をする。麩菓子は甘く、僕の口の中に残る。面と向かって、父親に頑張りますとそう伝えるのは、とても恥ずかしいことだと思っていた。曖昧に返したその答えに、意識が定かではない父親は、満足そうな笑みを浮かべた。ふらふらと立ち上がり、風呂場に向かう姿を見ながら、まったく不安を感じていない自分を、はっきりと自覚する。
「僕は、大丈夫なんだ。」
誰もいなくなった、深夜のリビングに僕の言葉が取り残される。
でも、だって、僕は小さい頃から知っている。懸命に努力できる人がいることを。その人達には、僕は決して追いつくことができない。僕は、そういう人間ではない。僕はだらしなくって、弱虫で、どこまでも普通なんだ。それでも、それなりに上手くやってきた。そうして、多分これからもそうなんだと思う。僕は、僕が思い描く人間だ。何かを望んで叶えられる側じゃない。これから、僕は大学に入って、「ミンシュシュギ」である社会に就職をして、もしかしたら家庭を築いて、子供が産まれたりするかもしれない。でも、やっぱり、僕には、それは決まりきったことのようにしか思えない。そして、僕は、僕の予想を超えてしまう未来など、望んでいない。そんなものは無い。
僕じゃない誰かが、きっと世界中の色んな所で、今も必死に叶えている。
そして、それは、ケンであり、陽なんだ。
陽は、どんな時も、懸命に努力が出来て、いつも他の人とはちょっとだけ違う場所にいる。ケンは、あのふざけた姿で誰からも愛されている。そんな人は、大丈夫なんだ。そんな人を追っている僕だって、たぶん、大丈夫なんだよ、お父さん。
優れている人間には、それに相応しい世界が待ち受けている。その事実だけが今の僕を、ひどく安心させてくれる。陽とケンの二人は、決して道を踏み外すことは無い。幼い頃から見てきたあの背中は、未だ追いつくことは無い。いや、そもそもそんなこと望んでいない。僕は、彼等の世界で生きている、その世界から抜け出すことが、とてつもなく恐ろしく、どこまでも怖かった。
僕は透明な袋を見ずに手で探る様にして、次の麩菓子を取り出す。番組が切り替わり、若者の車離れを報じていて、その後には、未成年が自分の親を殺すニュースが流れていた。
与えられた現実に対して、平成生まれの僕は、何の希望も無く生きている。そうじゃない人間が、傍にいる。そうじゃない人間が、確かにいる。
口の中にはまだ、ふんわりとした甘さが残っていた。何もしない自分を、できない自分を、どうしても嫌いにはなれなかった。
明日は、文化祭最終日。あの龍も明日まで。何もかも、あの炎は燃やしてしまう。



その日の朝はよく冷えた。昨日まで、東京にいたせいかもしれなかったが、久しぶりの実家での朝は、どこか空気が張り詰めていて、冷え込んだ空気が僕の身を鋭く刺し、冬の到来を感じさせる、そんな空気だった。大学の入学式ぶりに締めたネクタイが、息苦しく、僕は何度も首元に手を当てている。
 昨日、授業を終えて、店長に理由もろくに告げずに、来週のシフトを全てキャンセルにして欲しい旨を伝えると店長はまた頭を掻きながら、他のバイトに電話をかけていた。狭い店内を抜けて店を出る際、カウンターの中であの男の子は、綺麗に短く切った髪をしていて、僕に挨拶をしようか悩んでいる様子だった。僕は一瞥して、その様子に気づきながらも、何も声をかけることなく早足で店を後にした。
声をかける余裕は、僕に無かった。
母からの電話の後、堕ちていくように眠りについた僕は、翌朝スマホの画面に四件もの着信履歴を見た。その全てがケンからのものだった。起きてすぐに、ケンに電話をかけると、ケンはだいぶ落ち着いた声で、電話に出た。僕等は互いに、探る様に、葬式の日程を確認し合った。それ以外、余計なことを話すことは無かった、いや、たぶん、陽の名前すら、僕等は言葉に出さなかった。電話で話していたはずだが、ケンがあの黒々とした瞳で、僕をどこかから見つめているような気がした。
口に出すのは許されないと、互いに思っていた。
喪服に包まれた僕は、重たく空を覆う沈んだ曇り空の下、陽の家へと歩いていた。広がる田んぼの景色を囲うように、見慣れた山々は堂々とそこにある。視線の先、遙か遠く、あの裾野の広がりに僕等が通っていた高校はあったはずだが、こんなにも色が無かったのだろうか。年末も近い、地元の景色にはまったくと言っていい程、色が無く、ひどくつまらない世界のように思えた。

   *

実家から少し歩いた先、陽の家へと続く曲がり角。見慣れた髪の毛が、今日は少しだけ落ち着きを保ちながら、その身を風に任せている。だが、ケンの着ている服はいつものラフな格好ではない。喪服、いつもと違う印象を人に感じさせるもの。
「よう。」
ケンは手を挙げて、僕の方を振り向いた。表情はいつもと変わらない。人にいい印象を抱かせるような、そんな屈託のない笑顔を浮かべることができる人を、僕はあまり知らない。
「ケン、いつ戻ってきたん。」
「お前と同じだと思うよ、電話もらって、その翌日、もうこっち来てた。」
僕とケンは大学の長期休みの時は、いつも一緒に実家に戻っていた。なぜ今回は声をかけてこなかったのか。そんな無粋な質問をする気にはなれなかった。僕は、ケンと顔を合わせることが、少しだけ怖かった。
門柱のすぐ脇に葬式会場と立てかけられた札を見る。門を抜け、庭に入ると、一階の窓は取り外され、一面開け放たれていて、中の様子が窺えた。純白の長い棺の前に並ぶように座っている人々は陽の親族以外、知らない人達で、僕等と同年代の人もいれば、年老いた人も見受けられた。一瞬、陽ではない別の誰かの葬式に来ているのではないかと錯覚をする。棺の上に飾られ、花に囲まれた陽の笑顔の写真が、そうではないとはっきりと僕に自覚をさせた。
僕等は玄関をくぐると、喪服に身を包まれた陽の兄に、二階へと通された。小さい頃に一度だけ、僕は陽の兄を見たことがあった。四つも年を離れているせいか、陽とは纏う雰囲気がまるで別のものだったのを覚えている。容姿は決して似ていないが、喋る様子、立ち振る舞いで、この人もおそらく陽と同じだと、僕は直感した。二階の突き当たり、ドアに「陽」と書かれた木枠のボードが掛けられた部屋を訪れると、高校の部活の連中が輪を作る様に床に座り込んでいる。
「おう、お前ら遅かったな。」
奥に座っていた泉が声を出した。泉とはあの日、飲んで以来だった。ケンはみんなに、軽く会釈をして、陽のベットに腰をかけた。大学に入ってからも、僕等は夏休みや年末に顔を合わせていたので、久しぶりなどという気持ちはないが、陽が今まで外国にいた時期も、完全にみんなが揃うことはなかった。今日は陽を含めて、みんなが揃っている。
その輪に入りきらないように、僕はその円の外側に腰を下ろした。会話は、ケンが適当にみんなに挨拶をしたっきり、途絶えていた。相変わらず、どんよりと重たい雲が窓のほとんどを占めている。みんなが、小さく縮こまり、顔を下ろしている様子を僕は円の外側からぽつんと眺めていた。そして、目を閉じると、そうしている自分さえも、上から眺めるような、妙な浮遊感に包まれた。奥で石油ストーブの熱が排出される音だけが、部屋の中に漂っている。
「今、陽の大学の友人がお越しですので、少々お待ちください。」
陽の兄はそう言って、会釈をすると部屋を後にした。ベットに座りながら、ケンはみんなが囲う中央の床をじっと、見ながら俯いている。
僕は、部屋の中をきょろきょろと見渡してみた。この部屋だけは、陽が大学へ行く際、上京をした四年前から、時が止まっているようだった。天井まである大きな棚には、様々なサッカーの大会のトロフィーがあり、僕とケンだけが一緒に映っている、小学生、中学生のサッカーの試合の写真。ここにいるみんなと映っている高校のサッカーの写真。フットサル用の小さなボール。「フィジカルトレーニング~サッカー~」と書かれた本。電気電子工学と書かれた資料。他にも英会話の本や、陽がよく聞いていたアーティストのCDなどが並んでいる。
僕は、陽を感じ取っていた。僕は、おそらく、陽の青春のほぼ全てに存在していたんじゃないだろうか。ゆっくりと部屋を見渡しながら、陽の思い出から、必死に、僕とケンとの繋がりを探し出す。ああ、あの時、この時、そんな風に一つずつ、大切に思い出した。陽の中にも、僕やケンは、きちんと存在したのだろうか。僕が、ケンや陽を大切だと感じているように、陽は、僕等を見ていてくれたのだろうか。
随分と長い時間、陽を考えれば考える程、僕には、今日の出来事をやっぱり理解することができなかった。いや、理解することは許されなかった。
「留学でね、向こうの研究室に参加していたらしいんだけど、ほら、研究の内容も凄くレベルが高かったらしいの、それで、英語とドイツ語。言語も完璧に通じないせいもあってか、どんどん追い込まれていったみたいでね、向こうで、パニック障害を起こしたらしくって、休養も兼ねて、日本に来てからは大学を休んでいたみたい、実家と東京を何度も往復してたって。なんとか大学生活に戻れるように。」
母親は昨晩、目に涙を浮かべ、そう言っていた。英語で、ドイツ語で、研究活動をする。僕にとっては、考えられない程のたくさんの事柄を、陽は一杯に抱え込んでいた。それでも、陽なら、できんるんじゃないだろうか。いつものように、あの姿で、平然と何もかもこなしてしまうのではないか。僕はたくさんの疑問を胸に今日ここにいる。
それでも、陽は死んだ。
陽の最期は、大学の友人が、日本に来てからも、大学に来ない陽を心配して下宿を訪ねた際に見つけた、とのことだった。
「お待たせいたしました、みなさん、どうぞ。」
陽の兄は、ドアを開けると、手招きをして一階へと促した。玄関では、陽の大学の友人達が、ぞろぞろと外に出ていた。陽の大学の友人はかなりの人数で、大学でも変わらない陽の魅力を自然と伝えてくれた。僕は、ほら、陽はすごいやつなんだ、改めて、そう思った。
僕等は広い居間に入ると、綺麗に順序良く並べられた座布団に前から座り、僕とケンは一番後ろの列に並んで座った。白い大きな棺の前には、どこかの寺の住職が座り、その横には陽の親族が列を作り座っていた。陽の兄も親族の列に戻り腰を下ろす。陽の母親は、顔を伏せていた。
棺の奥には、ユニフォーム姿の陽の大きな笑顔を囲むように、花が並べられている。あの写真には見覚えがある。高校生の時に、ケンと陽で最後の一点をもぎ取った試合の後、陽の母親が僕を含め三人で撮った写真だ。あの陽の肩にかけられた手はケンのものだ。後日、僕にもその写真を渡されたことを覚えている。
何か長い経が読まれている。みんなが目を瞑って俯いている中、僕は顔をあげて中央に飾られる陽の笑顔と向かい合っていた。信じることはできない。いや、認めることはできない。あれこれと考えは巡るが、自分の感情がよく分からなかった。
次第に、この場から逃げ出したい衝動に駆られている自分に気が付く。隣に座っているケンを見ると、ケンも顔をあげ真っ直ぐ前を向いていた。ケンの瞳は、いつものように大きく澄んでいて、機械的に印刷されて、拡大された、陽を見つめていた。いつもの大きな黒目、いつもの髪型、何も変わらないはずだったが、ここまでケンの考えていることが分からないと思ったのは、初めてだった。
住職が経を読み終えた後、最後の挨拶だと促され、一人ずつ焼香の後に、棺の中の顏を眺めていく。僕はますます募る逃げ出したい気持ちを抑えるので、必死だった。じっとりと背中が熱くなるのを感じる。列が次第に進み、泣きながら部屋を出ていく部員がほとんどだった。長く、決して短くはない時間が流れていく。
ケンが僕の前で、指で小さく灰をつまんでいる。焼香が終わり、ケンは身を乗り出して、棺の中を覗き込む。ケンの髪の毛が、ケンについてゆらゆらと動き、まるでそれ自体が、生きているようだった。
その時だった。目の前の背中から、何か言葉を聞いた。
「あ。」
声は、おそらく咄嗟に、無意識に出ていた。何の為に来ているのか分かっていたはずだったのに。ケンの声は驚きを隠せない、そんな感じだった。
ケンはその場で、崩れ落ちた。
「あああぁぁぁ。」
他の誰よりも、大きく、声をあげて、床に腕を伏せながら、その場に留まってしまった。背中を小さく縮めて、叫びに近い泣き声を発するケンの姿に、僕の鼓動は、急速に激しくなっていく。
僕は動けない。何が起こっているのか分からなかった。
ケンは、一向に動かず、何かを誰かに問いかけるように、泣き叫び続けていた。僕はただただじっと動かず、畳に小さく丸まっているケンの。この背中を見続けるのに必死だった。時折、微かに震える背中は、誰の背中か分からなくなっていた。
ケンは、何分経っても、いつまでも動かなかった。堪えきれなくなって、僕は無理やりケンの隣に移動して、見よう見真似で、小さく灰をつまみ、それをただの動作として繰り返して、焼香を手早く終わらせると、足元に蹲っている、ケンを力いっぱい抱え、無理やりに立たせた。
立ち上がると同時に、白い棺の中が、僕の視界に飛び込んできた。
久しぶりに見た陽は、あまりに、うつくしかった。
そこにあるようで、ない。そんなかんじ。力強さも、懸命さも、輝きも無い。
ただ、どこまでも、うつくしかった。
同時に世界が、ぐらぐらと揺らいで、ケンと一緒に自分もその場に倒れそうになる。僕は何とか踏ん張り、すぐにケンを肩で抱えるようにして棺に背を向けた。ケンは、尋常じゃない強い力で、僕の肩を掴んでいる。それは、悪意に近いようだった。ケンは、その力の矛先をどこに向けていいのか分からないように、目いっぱい、本気で、僕の肩を力強く掴んだ。僕は、ケンを今すぐに陽から離したかった。耳を劈くようなケンの叫び声も、力いっぱい、僕にすがりつく姿も、何もかも一刻も早く消し去りたかった。
ケンを抱えながら、外に出ると、輪になってみんなが泣いていた。そして、ケンの様子を見るなり、また、みんなが涙を流した。ケンは、この十年間、一度だって涙を流したことがないし、そんな素振りをみせるような人間では無かった。そのことは僕を含め、部活のみんなが知っていた。ケンのここまでの異様さは、みんなを怯えさせ、得体の知れない悲しみに拍車をかけた。
肩を掴むケンを力付くで離し、庭に這いつくばってしまったケンを見ると、僕はまた妙な感覚に襲われていた。すぅっと、頭から自分の意識が抜けていくのを感じる。ちょっとだけ空からこの様子を眺めている。泣き叫ぶケンの傍に立っている、僕が見える。無表情に呆然と立ち尽くしているようだった。ぼんやりとその光景を、感じているうちに、僕はようやく理解する。
それは、怒りだった。
理解できない。それは、何か、未だ知らない。何か嫌なものに対する、怒りだった。
「あああぁぁぁぁぁ。」
聞いたこともない、もう誰の声かも分からない叫び声が、僕の頭の中にいつまでも、いつまでも鳴り響いている。

   *

 みんなが帰路についた後、ようやくケンは落ち着き始めた。
ケンが、陽の家で飼っていた白い毛に覆われた犬と庭でじゃれ合うのを眺めながら、僕は、棺の前で陽の母親の話を聞いていた。海外での研究についていけなかった挫折が、陽の心を大きく乱してしまったこと。陽が悩み、苦しんでいる様子をただ聞いてあげるしかできなかったこと。陽が帰国してからは、実家と東京を行き来し、必死に元の大学生活に取り戻そうとしていたこと。そして、どうやら向こうで、苛められていたということ。日本人だということで、現地の人間は偏見の目で陽を見たらしい。陽の母親から聞かされたそれは全て、僕が何一つとして知らない陽の姿だった。
 母親の話を聞く僕の傍らで、ケンは、必死に、頭を揺らしながら、白いもさもさした生き物と、じゃれている。
「心の病気には、気を付けてね。」
 陽の母親は、僕にそう言った。悲しいという感情は無かった。僕の中には、黒い得体のしれない大きな塊が、はっきりとあった。そしてなぜかそれは、今までの人生では経験したことがない程、僕を奮い立たせ、憤らせていた。陽のいた場所は、職場に近かった。そこには仕事があり、陽は、人間関係に悩んでいるというメッセージを何度も母親に送っていたという。僕は、まだ信じることが出来なかった。陽の死ではなく、陽が、自ら死を選ばざるを負えないまでに追い込まれたという事実が、どうしても腑に落ちない。この日の出来事を、僕は認めることができない。
 別れ際、陽の母親は、僕に一枚の紙を手渡した。
「これは、たぶん、あなたたちに宛てたものだと思うの。だから持って行って。ねぇ。」
 そう、涙を零し、手を震わせて、僕に手渡したものは白い一枚のルーズリーフの切れ端だった。最後の陽の部屋に、それらは散乱していたらしい。そこには、多くの、苦しみや、悩みが綴られていた。その中のくしゃくしゃになった一枚。陽が抱えていたものを吐き出すように、散りばめられた紙。陽は、その中央で、息絶えていた。
唯一、僕等に宛てたものがあった、そう、陽の母親は言っていた。
 僕は恐ろしくなった。この先に、何があるのだろう。陽が見ていた世界は、どんな世界なんだろう。理解したいという感情と共に、それを見れば、陽が僕の中からも消えてしまう。そんなことは嫌だった。僕の握る紙は、とても、弱弱しく、皺が付いている。
 ケンは必死に、庭で犬とじゃれている。さっき泣き叫んでいたケンは、本当に、ケンだったんだろうか。あの笑顔は、いつものものではないのだろうか。
 僕は、その手紙を開いてしまった。

   *

 帰り道、ケンと二人きりでとぼとぼと歩いていた。遠くには、一定のリズムを奏でる虫がいる。辺りは、暗くなり始めていた。僕は、ケンと一切話さずに、帰路につく。
陽は、努力できる人間だった。周りの環境に関係なく、努力をすることのできる人間が評価されない世界なんてあるはずがない。いや、存在してはいけない。どうしよもない、救えない馬鹿が、陽を苦しめて、殺したんだ。いや、陽は殺されない。陽はそんな奴らに、途方に暮れた挙句。
自らを、自分の手できちんと殺したんだ。
社会は、そういう人間がたくさんいる。ミンシュシュギ。くだらない。何の為に。どこにも落ち着くことのない感情はぐるぐると、僕の中で揺れ動き続ける。下を俯きながら、おそらく最近舗装されたばかりの、アスファルトの色の濃淡の違いを、ただ見比べていた。
陽は、完璧だった。それだけは、決して変わりっこない。
 今日の夜は、雲ひとつなく晴れている。そんな夜空を見上げ、僕は、あの燃え上がる龍を思い出していた。ただ純粋に、そこに在り、力強く燃えることができる炎。あの日、何に僕は惹かれていたのか。
僕の小さく閉ざされた世界に確かにあった、あの熱。どれだけ狭くても、僕を照らし導いてくれたものは、その熱を一気に失ってしまう。代わりに得た、得体の知れないどす黒い大きな塊が、襲い掛かってくる。
右手にある折りたたまれた紙。僕は、それを強く、強く、握りしめていた。ケンはどこかすっきりとしたような、無垢な表情で、ふうううぅ、と長い息を吐いていた。冬が近い、白く靄がかかったケンの吐息は、冷えきった空気の中に溶け込んで、そのまま消えてしまった。



 最後列から眺めるその景色は、気味が悪く、どこか恐ろしくさえ、感じる。面接もピークのこの時期、多くの学生が新調したスーツを着て講義を受けていた。最近まで、茶色だったほとんどの学生の髪が、不自然な黒色に統一されている。人工的で、造られたその色が、一様に座っている様子は、どこか異質で、気味の悪い雰囲気を漂わせている。
「だからこそ、日本はやり直しが利きにくい社会だとも言えるんですね、これは文化であり、問題でもあります。」
 手元の世界地図は、各国が色によって差別化されていた。ロシアと日本は同じ色で色分けされている。レジュメのタイトルには、自殺率からみる世界経済。全学部共通で受講可能で、教養の講義では簡単な単位だと聞いて、選択しているが、内容は今までほとんど、聞いていなかった。
「特に、若年層の自殺率は異常です。高齢の方の自殺率も当然無視できませんが、日本の若者の死亡の原因が自殺だというのは先進国でもかなり高い、それが現在の日本です。」
 マイクを使いながら話す教授は、三十代位の男だった。僕は手元の資料の「自殺」という二文字を上から強く黒く塗りつぶした。押しつぶすようにしてシャープペンに力を入れると、黒鉛で手が黒く汚れる。その汚れを見ていると、不思議と心の底から気が安らぐような気がした。いや、分からない。僕は周りの目を憚らず、一心不乱に黒鉛で手を汚し続けた。時折、隣の女が、こちらの様子を窺っているのを感じ取れたが、関係が無いように、それだけを続ける。
頭を掻きながら、机の上に出していた筆箱や、配られた資料を、音を立てながら鞄に詰め込む。出席も取っていない講義だ、資料だけあれば、試験は通過できる。気が付くと、まだ一年生だろうか、前の列に座っていた茶髪の男が、訝しそうにこちらを振り返って見ていた。はっきりと相手に聞こえるように舌打ちをして、悪意を持って睨みつけると、教室を後にした。

   *

 校舎の外に出てから、広場に設置された喫煙所に移動した。今までこんな場所には来たことが無かったが、この半年で吸い始めた煙草はもう無くてはならないものになっていた。煙草をくわえ、校舎に背を向けながら火を点ける。細長く薄い煙を吐き出すと、風ですぐに流れていった。
僕は、世界を眺めていた。学校のすぐ前の掘りに並走する遊歩道には、いつものホームレスの老人が多少の身なりを変えて、座っている。ふと、その様子を眺めていると、駅から遊歩道を歩いてきた男が、彼のすぐ前を何もなかったかのように通り抜けた。次に来たのは、二人組の女だった。まさに、大学生らしい身なりをした女達。互いの顔を見つめ合い、歩いている二人に、あの老人の姿は、景色の中のパーツとして扱われている。彼等から見る、あの老人の姿は、側道に生える随分と貧相な木々や、その周囲に捨てられている空き缶や煙草の吸殻と、大差ないように感ぜられた。僕は何かに追われるような、そんな息苦しさを覚える。
 葬式を終え、再び東京に戻ってくると、僕は、そう決まっていたこのように、あれ程に心地の良い時間だったカフェを辞め、就職活動を始めた。ちょうど老人の座るベンチ、堀を挟んだ向かい側にあるカフェの大きな窓ガラスが、ぎらぎらと日の光に反射している。齋藤さんが、よろしくと伝えた、彼のことも、あの日以来、顔を合わせていなかった。どうやら、店長に好意的に思われていなかった、新人の彼を守る必要なんて無い。彼はあの後、おそらく苦労をしただろう。あの性格や外見では、僕にとっては分かりやすい店長に、気に入られるとは到底思えなかった。彼を不憫に思い、そして自分が守ってやろうなどと驕りを持っていたことを強く恥じた。
半年前から、音信不通になった僕に、一か月程、店から電話が頻繁にかかってきていたようだったが、よく覚えていない。店の番号を着信拒否にする必要もなかった。僕はこの半年、ほとんどの知り合いの電話には出ることは無く、ただ、目立たぬように、周囲の就活生達から与えられた流れに従い、それに努めた。
「おーい。」
 突然、肩を叩かれ、僕は持っていた煙草を落としそうになる。振り返ると、前より幾分か、髪型の整ったケンがいた。
「健康に良くねぇぞ、んなもん。」
ケンはそう言いながら、僕の反対の手に持っていた煙草の箱を奪い取り、ベンチに座り込んだ。スーツ姿のケンは、片手に茶色の封筒を抱えている。どうやら、どこかの企業の面接帰りらしかった。
「今日だっけ、お前、最終面接。」
 僕はそう言いながら、すぐさまケンから煙草を取り返した。
「受かったね、ばっちり。俺も、安定男子確定ですなぁ。確か、お前は明日だよなぁ。」
「そんな当日に言われるもんなん。」
ケンの瞳は変わらず黒くて、どこまでも大きい。それでも、以前より心なしかその輝きを失っているように思える。
「んなもん、なんとなく雰囲気で分かったよぉ。」
 ケンが、そう言うならそうなのだろうか。本当に、そうなんだろうか。
 ケンは、あの日から何も変わらず、過ごしていた。大きく澄んだこの目を見ると、あの日の光景が浮かび上がってくる。ケンの僕への態度は一切変わらないが、僕はケンと話す時に少しだけ緊張するようになっていた。
 燃える炎の中、ふさふさとした髪をしたケン。
 白く、そして、静かな棺を前に崩れ落ちるケン。
 僕は、そのどちらも、簡単に心の中に鮮明に思い描けた。
ケンは、金融系の業種で何社か受けているようだった。フクリコウセイ、フクリコウセイ、就活の時期が始まると呪文のように、そう呟きながらパソコンと対峙をしていたのは、三か月程前のことだ。
「おめでとう、良かったな。」
「じゃあ、これはお祝いってことで。」
 ケンはにやりと不敵に笑い、僕の残っていた煙草を取り出し全て灰皿へと投げ込んだ。僕は、溜められた水の上に浮いた煙草を眺め、何の感情も沸いてこない、怒ることもできない自分を感じていた。
「あとは、コーヒーでも奢ってくれよ、あそこで。」
 そう言うと、ケンは学校の向かい側、僕が働いていたカフェを指差した。僕は、窓ガラスに反射した光に、一瞬目を背ける。
「なんで、わざわざあそこなんだよ、別に駅前のどっかでいいだろ。」
「だめ、あそこのコーヒーがいい、それにお前ほとんどばっくれたとはいえ、長いこと働いてたんだし、奢ってくれるかもよぉ。」
 ケンは、勢いよく立ち上がると、僕を促し、校門に向かって歩き出し始めた。カフェに、向かう途中、あの遊歩道を通り、ホームレスの老人と顏を合わせた。黒ずんでいる顏が、春の太陽の光を目いっぱい浴びて、歪んでいる。ケンは老人の前を歩きながら、軽く頭を下げて会釈をしていた。
「あのおっちゃん、風邪ひかねぇかなぁ。」
 堀に掛けられた橋を渡っていると、ケンの背中がそんなことを言った。

   *

 僕は道路沿いの大きな窓から、店内を眺める。狭い店内は表から覗くだけで、隅々まで見渡せる。どうやら、店長は早番の日らしかった。
 だが、カウンターにはあの男の子がいた。もう一人は、僕とはあまりシフトが被ったことの無い主婦だった。僕は、少しだけ安心をする。
「いないっぽいな。」
 僕の背中に身を寄せながら、店内を覗き込んでいるケンがそう呟く。ケンは店長の顏を知らないはずだった。
「よしっ、行きましょぉ。」
 半年ぶりに、この扉をくぐった。何度も、開け閉めしていたはずの扉は妙に重く、僕の侵入を拒んでいるかのようだった。僕は店内に入ると、下を俯きながら一目散にカウンターに背を向けられる席に陣取った。
「バナナスムージーと、お前何にする。」
「ケン、お前にブレンド奢るって話じゃなかったか。」
 僕が財布から千円札を取り出すと、ケンはひったくるように、僕の手元から金を奪う。
「俺、コーヒー飲めないよ。」
 ケンはそう言うと、片手に千円札を握りしめて、カウンターへと向かう。僕は席につきながら、ばれないように、顔をずらして、その様子を窺っていた。
 ケンは身振り手振りを交えて、注文をしている。レジを挟んだ向かい側で、注文を聞いている彼は、笑顔を崩さず、きっちりとした対応をしていた。彼は見たことも無い位に、堂々としていて、それでいて落ち着きを保っている。半年前見た面影は、もう一切なかった。彼の背面に置かれた機械で、ブレンドを作りながら、バナナをミキサーにかける。レジで、僕から受け取ったひらひらと千円札を出している、どこか様子のおかしい妙な男から、現金を丁寧に受け取ると、そのまま商品を提供していた。ぎこちなかったはずの笑顔は、今は一切崩れなかった。
「お待たせぇ。」
 当然、ケンからお釣りは返ってこない。ケンは目の前のバナナスムージーを飲み始めた。店内は平日の夕方にしては、混んでいた。カウンターでは、二人が忙しなく動いている。
「あの店員、すごく愛想良かったし、手際も早かったねぇ、ちょっと見惚れちゃったよ。」
 僕は、ブレンドを一口飲む。好きだったこの店の味が、僕の口の中いっぱいに広がる。
久しぶりに飲んだそれは、懐かしい味だったが、どこか物足りないような気がした。
「知り合いじゃねぇの、あの子。」
 口に白いひげをたくわえたケンが、目でカウンターの方を合図する。僕はまだ彼に背を、向けていた。
「辞める前、ちょっとだけ一緒だった。」
 ふぅん、そうなんだ、とそんなような反応をしたケンの声は、コップを咥えながら話しているので、しっかりと聞き取ることが出来ない。
「お前、メンセツ、あした?」
 ケンは、僕にようやく聞きたかったことを聞いたようだった。店内はがやがやと賑わい始めている。
「うん、そうだね。」
「お前、あそこ絶対ブラックだよ。ネットで見る限りホワイトの欠片も無いぞ。なんであんなとこ、受けてんの?」
 そう言いながら、ケンはおもむろに僕のコーヒーにミルクを入れる。ブラック、ダメ、絶対。どこかで聞いたような文句を呟きながら。僕は、黒い静かな水面がゆっくりと色を変化させていく様を何も言わずに見つめていた。淀んだミルクが、汚いものに見えてしまう。
答える必要なんて、無い質問だった。
「あの子、あんな風になれるとは思ってなかったよ。」
 僕は、そう言いながらブレンドに砂糖を入れた。突然の暗い僕の声色に、ケンはスムージーのコップを口元から遠ざけた。店内が心なしか静まってきているように感じる。
「俺が世話になった人に紹介されてさ、あの子が入ってきた時、凄く気の弱そうな男の子だったよ。店長もあまり気に入ってなかったし、要領は予想通りというか、なんかやっぱり悪かった。それでも、あの子が熱心な様子は分かってさ、すごく、彼なりに、不器用だったけれど、とっても一生懸命だったんだよ。」
 ケンは、僕を見ている。そんな気がした。
「一生懸命だったんだよ、ほんとに。それは分からない人が多いんだろうけれど、彼はどのバイトよりも勉強熱心で、一人で、しっかりとできてたんだ、それが、相手には伝わらないだけで、だからさ、だから。」
 僕の言葉は。もう、止まらなかった。
「でも、結局僕は、多分続かないだろうなって思ってた。店長もけっこう体育会系の人だし、なんだろう、…人に気に入られるようなお世辞の一つも言えない子だと思ってたからさ、だから、正直、今日彼がいるのに驚いてるよ。なんでまだいるんだろうな。ははは。」
 僕の次第に大きくなっていく声を止めるように、ケンがテーブルに音を立ててコップを置いた。店内の賑わいは、僕には聞こえない。
「それは、あの子が一生懸命だったからだろ。」
 小さく、静かな、怒りの声を、僕は聞いた。それは、紛れもなくケンの声だった。
「それだけ懸命にできるんだったんなら、ああやって仕事をしっかり覚えて、きちんとできるのは当たり前だろ。…いや、ほんとは、そうじゃなきゃおかしいよ、お前は間違ってないよ。」
 僕は、ほとんど泣き出しそうになっていた。ケンが何を考えているか、どうしても、僕には分かってしまうから。
「だから、俺にだってわかんねぇよ。お前がらしくねぇとこに就職を決めようとしてるのも。わかんねぇよ。俺だって。何が起こったか…。」
 ケンはそこで、口を閉ざしてしまった。でも、その言葉の先を、僕はなんとなく理解している。
ふと気が付くと、店内はまだきちんと賑わっていた。笑いながら大声で話している女子高生、いつもの席でパンを食べている老人、仕事を懸命にしている彼、白いひげをたくわえたまま、コップの底を見つめ続けるケン。
 様々な人々の中で、僕の背にしているカウンター越しの向こうには、僕の好きだったソフトクリームの機械があった。その銀色のボディには、とても白い、きれいなものが、今日も変わらず、詰まっているはずだった。

   *

 翌朝、僕は最終面接に向かっていた。新宿は、朝から雨が降り続いている。僕は、面接会場に向かう為、新宿からトンネルのような歩道を歩いていた。トンネルに鳴り響く、雨音から激しく雨が降っている様子が窺える。どうやら、一日降り続きそうな雨だった。湿度の高い空気が、着慣れないワイシャツを更に不快なものに感じさせる。
 先週、内々定の電話を受け取った。意思確認と、入社までのスケジュールを伝えたいので、最後に一度面談をしたい、そういう趣旨だった。僕は、大きな声で明るく、はきはきと、その電話に受け答えをした。自分でも驚く程のエネルギーに溢れる様子が、滑稽で仕方なかった。
 面接会場は、とあるビルの上層階だった。今までの面接が、貸しホールで行われていた為、最終面接で初めて僕はこの会社に訪れた。自動ドアをくぐると、ドラマでしか見たことのないような受付嬢が二人、笑みを浮かべていた。僕は、受付を済ませると、廊下の途中、紅色とでも言うのだろうか、そんな色味に一心に染まっているソファに腰をかけ、待つように勧められる。僕は、受付嬢に軽く会釈をすると、趣味の悪いソファに腰を深く下ろした。
 目の前にあるのは、ドアだった。それは、なんだか厳かだった。木製で、濃い茶色をして、板チョコレートのように、深い彫りが均等に入っている。みんな、この先を目指して、就職活動をしていた。僕も、この三か月必死に内定をもらう為に、面接で演じ続けてきた。中では廊下にまで聞こえる程の、若い男の声がする。その声色は、楽しそうな明るい口調だった。時折、年配の男の低い笑い声も聞こえる。僕は、その場で鼓動が高鳴っていくのを感じていた。面接が終わった気配がして、中から出てきた僕と同年代の男の子は、部屋を出る際、深く頭を下げて、廊下に響き渡るような声で、ありがとうございましたっっ、そう叫び、僕の前を軽やかに通り過ぎて行った。
 僕は、張り詰めていく緊張の糸をばっさりと切り捨てるように、ポケットに手を入れた。ああ。まだ、確かに。ある。僕の汗ばんだ太ももに、吸い付く様に身を寄せる紙。
「次の方どうぞ。」
 中から、先程の低い声がした。僕はドアに手をかけた。そのドアは重く、力いっぱい入れないと、開かないような気がした。中に入ると、大きな丸い灰色の机を挟み込むように、椅子が二つあった。片方には、面接官が座っている。今までのように、長い机とたくさんの面接官を前に対峙するように、椅子があった面接らしい面接とは明らかに異なっていた。
「失礼しますっっ。」
 僕は、先程まで見ていた男の子の声量をそのままに発した。椅子に座ると、色黒の中年がどっしりと構えていた。スーツの袖から見える、シルバーの時計は詳しくない僕でも分かる程に明らかに高級で、胸元のボタンは第二ボタンまで外れていた。椅子に座り、名刺をもらうと、人事部長と書いてある。中年のその男の声は野太く、時折見せる笑顔から見えた歯は、いつかどこかで見た気がする。ひどく黄ばんでいて、気持ちが悪かった。
 僕は、部屋に入ってから、冷や汗をかいていた。何か、得体のしれないものに自分が侵されていくような感覚だった。どうか、どうか、持ちこたえてくれ。そう小さく願う。太ももが、痛みを伴うように鋭く脈を打っているのが分かった。
「それで、覚悟はできたか。」
 その男の口からでた、あまりに唐突で、馬鹿みたいな言葉に、僕は思わず吹き出しそうになった。周囲の学生から聞いて、予想していたことだったが、こういった意思確認の面接は、内定を出す代わりに、就職活動をやめてほしいという企業からの誓約だった。この男の仕事が、学生にさも、優秀な所に就職をできるんだと分からせることだということも。
「もちろんです、やる気しかないですよ。」
 不敵に、僕は笑みを浮かべ、頭の悪い学生のように、そう言い放った。男も呼応したようにねっとりと絡みつくような笑顔を浮かべ、雰囲気だけが勝手に、明るくなっていく気がした。
「ははっ、そいつぁ、良かったよ。」
 僕の望みはできるだけ実力主義の会社に入ること、それだけだった。ハウスメーカーの営業職。学歴も何も必要もない、身ひとつあればこなせる仕事。それは、僕がひたすらに望んでいた世界だった。その世界で、僕は生きていく。予め、インターネットで調べ、数字に対して厳しく、パワハラや、離職者が絶えない事実も、僕は知っていた。
しかし、力強く、懸命に、やっていけば、必ず認められる。あの日から、僕の残りの人生を全て、その正しさを証明する為だけに歩もうと決めていた。こんなにも、何かに動かされたのは僕の人生で、初めてだった。それが本意だろうと、自分らしくなくても、そんなことは、関係が無かった。
「今日は、君に内定を出すにあたって…。」
 三十分程の面談で、男は何度も繰り返しているであろう会社の説明、入社までに必要な資格を必ず取得すること、時折、聞いてもいない過去の契約の武勇伝を交えながら、そんなような話を進めていた。営業とは、なんて言われても、いまいち理解できなかった。
 男から発せられる滝のように流れ込んでくる言葉を、僕は落ち着いて、じっと聞き続けていた。時折、大げさな反応も交えて、笑顔を絶やすことなく、聞き続けた。
「よしっ、良かった。お前となら、やってけそうだ。これから一緒に頑張ってこうな。」
 僕は、どうやら正式に内定が出たようだった。僕は少しだけ、安心した。現代の就職活動。それは厳しく、辛いものだった。優秀でも無い大学にいて、何の努力もしてこなかった僕は、何社も受けなければ決して、内定は出ない。親に、もう一年やらしてくれ、なんて言えるはずが無かった。僕は、ただでさえ、親にどんな企業を受けているか、相談なんてせずに、この半年やってきた。おそらく親も、色々と心配する職種だろう。僕は、これからそんな所に勤めることになるようだった。
「最後に、何か聞きたいことはあるか。」
 不意に発せられたその一言に、今まで上手く演じていた自分が、崩れた。
「あ、あの、辞めてしまった人って、なんで辞めたんでしょうか。」
 不覚だった。この部屋に入ってから、好印象を与えるようにし続けた時間が無駄になってしまった。そう思った。だが、僕が聞きたいことは、まさにそれだった。男の顏が一瞬、曇るのを感じる。歯切れの悪い嫌な空気が、僕の足元から流れ込んできているようだった。スーツの中が蒸れて、重たい空気が僕の身体に籠っている。
 男は低く淀んだ声で、喋り始めた。
「はあ、まあ、そりゃ、色々あるだろうな。人間関係とか、夢とかさ。でも、まあ結局、やれる人間はどこでもやれるよ。自分次第ってことだ。ほら、一流は場所を選ばないっていうだろう。どうした、今までのやる気だと、お前は大丈夫だと思うけどな。」
 机に置かれた書類を整えつつ、笑みを浮かべ話した男は、まだ何も喋っていない気がした。こいつとは、まだ何も話していない。聞きたいことも聞けていない。でも、もう、ここでいい。止めろ。止めてくれ。ちゃんとできるんだ。
僕は、できないと、駄目なんだよ。
「駄目だった人はどうなるんでしょうね。」
 鼓動が、よく聞こえる。面接も終わりの時間が近い。ドアの向こうには人の気配がする。男の薄汚い不健康そうな唇から、少し長い溜息が漏れている。僕は諦めたように、ただ、その男を見ていた。いや、悪意を持って、この男の先にある、まだ踏み入れたことのない何かを必死に見ようとしていた。
男の口元からゆっくり、黄ばんだ歯が見え始める。
「駄目なやつは、どこいったって駄目なんだよ。」
 男は、そう言った。
 僕の心臓が、どくん、どくんと、血液を体中に力強く送り出していく。
待ち切れなかった、その答えを喜ぶように。
「はははっ、そうですよね。」
 乾いた笑いと共に適当な相槌を打つと、男も分かってくれたかとでも言うような、安堵の表情を浮かべた。一気に緩やかな雰囲気が戻ってくる。僕は急いで、荷物をまとめ始めた。抑えきれるのだろうか。最高の笑顔を作り、足早に部屋を後にした。ドアの前に座っていた次の男も見ることも無く、廊下を駆け抜ける。ただ強く、何度もエレベーターのボタンを押した。よく磨かれた銀の鏡面のような扉の前、顔を上げて、徐々に上昇していく数字を見ている。長い時間のように思えた。扉は恐ろしい程、ゆっくりと開く。締め切る前、長い廊下の奥、重々しいドアに再び入っていく人が見えた。
 無機質な扉が閉まる。すると、そこには。
随分と気味の悪い男がこちらを睨んでいた。
 こいつも、殺してやりたい。僕は、そう思った。

   *

すれ違う人々は、はっきりとした目的を持って歩みを進めているように思える。これは、確か、駅へ向かっている途中だったが、どうも自信が持てなかった。どこに向かっているのか、どこへ行くべきなのか、もうよく分からなかった。どこに、どこに向かっているのだろうか。訝しそうに、すれ違う男がこちらを見ては、通り過ぎ、女がちらりと見ては、こちらを避けるように、通り過ぎていく。
どこからか、拡声器で喋るしゃがれた声が垂れ流されている。
「日本を元気にっ。それには若者の力が必要不可欠なんですっ!さぁ!今の政権に任せていていいんですかっ!食いつぶされて、いいんですか!」
橋の下では、犬がマットの上に寝ている。帽子を被った、不自然な笑みを浮かべる飼育員の恰好をした男女が、その傍らで笑いながら立っている。暑さからか、ぐったりと寝ている犬を、何度も触れては離れる、小さな女の子。その母親らしき女が、その横に置かれた募金箱に、お金を入れている。犬には、首輪が繋がれている。太い縄を持っているのは、気色悪く笑っている人間。
年配の女が、胸にお手製のプラカードを抱え、色んな人にチラシを渡す。なんとか党って書いてある下に、なんとか法撤廃って太い文字で書かれている。僕が、歩みを緩めると、呪文のように何か耳元で、囁いている。足を止めれば、いつまでも、その女は僕の傍に居続ける。
 目の前を歩く、ホストのような若い二人組の男達がいる。肩を揺らし、けらけらと楽しそうに笑っている。不意に、左側を歩く男が、汚い音と共に、唾を吐く。その唾は、路肩で寝ていたホームレスの身に纏っていた布切れのような衣類にかかる。ホスト野郎は気付く様子も無く、そのままどこかへ行ってしまう。かけられた唾が、ゆっくりと、嫌な動きをしながら衣服を伝い、重力に耐え切れずに堕ちてゆく。そんな様子に、気付くはずもなく、街中を歩く人々は、顔色ひとつ変えずに歩みを辞めようとはしない。
 そんなことで、誰も、歩みを止めやしない。
 ゆっくり、右手を開き、ポケットの中から紙を取り出す。僕の熱気で、湿ってしまい、ぐちゃぐちゃに皺を寄せた紙には、何か書いてある。何度も何度も、開いては閉じた、その紙、頼りなく擦れて、今にも消え入りそうな、歪んだ文字。繰り返し、声に出して、読んだ、その言葉。

―どうか、あいつらからはうばわないでくれ。

 陽の苦しみが綴られている。周りに書き込まれた醜い感情の中、一際大きく書かれたそれが、僕を呼んでいる。
遙か遠くにいたはずの、何かに、やっと触れられた気がした。
誰の叫び声か分からない声は、いつまでも繰り返されて、もう鳴り止まない。僕の意識がどんどんと遠ざかっていく、ここでは無い、どこかへ逃げようとしている。

   *

僕は、太陽の下にいた。暖かい、ほんわりとした陽の光が、僕をどこまでも丁寧に包み込んでいる。革靴が水たまりに入り、その音で、僕はいつの間にかトンネルを抜けていたことに気が付いた。一日、降り続くかと思っていた雨は、すっかりと止んでしまっている。
不意に、左のポケットが震える。その拍子、ひどく固く握っていた右手は、弾けるようにして、中から飛び出してきた。
「着信:ケン」
 僕はスマホを耳に当てると、大きな音を立てて生唾を飲んだ。ここは多分まだ新宿で、僕はどのくらいの時間、どこに向かって、歩いていたんだろう、いや、僕は今まで、本当に歩いていたんだろうか。
「おっ、でたなぁ、どうだったよぉ。頭、ポマードでキメてんのかぁ。キメきめぇー。」
 ケンの声を久しぶりに聞いた気がした。楽器のように、賑やかにテンポよく、発せられる言葉に、僕はなんだか安心していた。
「ぇ、ケンっ。」
 僕は必死に、喉から絞り出した。
「あいあいっ。」
 視界が、ぐらぐらと歪み、点々とできた水たまりから照りつける光が、ぼやけて何重にも見える。視界は光に包まれて、ぼんやりと輝いている。声が、上手く出ない。
「お、おまえ、生きてけんの?」
 助けてくれ。震えた声が、そう、叫んでいた。
涙が、壊れたように、僕の頬を零れ落ちていく。
嗚咽が漏れているのが、分かっているのだろうか。離れているはずなのに、あの大きな黒く輝いた目が、また僕をどこか遠くで見つめている。少しの間、沈黙が流れた。
「…あぁ。」
 ケンが創りだす、真剣な声は、どこかうつくしい。
「生きていくよ。俺は。」
 力強く、ケンはそう言ってくれる。
「な、なぁ、ひっく、なんでだよ。どうしてだよっ。」
 なんて、臆病なんだろう。変わることができないのだろうか。あの熱を求めたように、追いつくことの無い背中を見続けたように。
僕は、いつまでも、彼等を求め続けている。
「まだ、お前がいる。あと、エリちゃんも。」
 僕の耳元で、んっと、艶っぽい女の子の声が聞こえた気がした。それは、ケンの隣でエリちゃんが、おそらく突然に愛の告白をされ、驚いた声だった。まさか、傍にいるとは思っても無かった。こうして、ケンはいつもきちんと歩んでいたんだ。
「俺、知らなすぎる。なんにも。俺、銀行員になるんだ。エリちゃんとの子供もいつか生まれるんだ。それで、笑ったり、悲しんだりするんだ。これからも、ずっと。そして、いつか死ぬまで、そうしていくんだ。それだけが、楽しみなんだよ。」
 僕は地面にしゃがみこんで、動けなくなっていた。背中が、光を浴びて、じんわりと温まっていった。太陽が、僕を照らしている。再び、照らしてくれている。
「そん時、お前は、傍にいて欲しい。だから…。もう、いいんだよ。」
 足音は、止みそうにない。たくさんの人が、入り乱れ、様々な場所へと駆け出していく。それでもまだ、ケンの瞳がとても優しく、見てくれている。
 ケンは、あの時、陽の棺の前で、すべてを置いてきたんだろうか。今、僕から流れる涙は、あの時流すべきものだったんだろうか。陽を失った世界は、これからも廻り続ける。僕とケンの世界は、これからも続いていく。
僕等は、まだ何も知らない。
この世界で、生きなければいけない。
頭上から、眩い程にうつくしく輝く太陽が、止まることなく、次々と地上に降り注いでくる。僕は願い続ける、僕の世界のすべてに、それが届くように。

ポケットに、おそるおそる手を入れてみる。
微かに熱を帯び始めていたそれが、力強く、脈を打っていた。

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