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第10回 一穂 恵比寿

東京で本格的な日本料理店を目指すのは久しぶりだった。東京イコール江戸前なる概念、というか憧れがなかなか抜けない地方出身者のぼくは、鮨、蕎麦、天ぷらといった専門性の高い料理店に食指が動く。トータルとしての日本料理は、西に出向いたときに必ず訪問するので、さほど飢餓感もないのだった。

ところが、敬愛するフランス料理のシェフ、児玉拓未さんが今年に入って二度も行っておられる日本料理店があることに気づいた。恵比寿にある『一穂』だ。ほとんどノーマークだったので調べてみると、食べログには2020年5月24日オープンと記載されているものの、2022年9月末現在、一件の口コミもない。それにしても2年以上口コミがないのは、食べログの特性上、少々驚きだ。予約の電話を入れると、一度目は満席との極めて丁寧なお断り対応。名前を訊かれたので伝えると、次に電話をした際、そのことをキチンと記憶されていた。

さて、恵比寿の『一穂』のところまで行ってみると、なんとなく周辺に見覚えがある。ここは、創作料理で一時話題となった園山真希絵さんの店『そのやま』があった場所ではないか。実際に伺ったことはないのだけど、当時は、狭い路地を進んだ奥の古い建物と記憶している。現在は、とてもすっきりと削ぎ落とされた感じで、きれいなビルが建っている。駅から歩く距離も程よくて、これから少し背伸びした食事をするなら、絶好のロケーションと言えようか。

エレベーターで3階へ。少々色気のないドアを突破すれば別世界。オープンしてすでに2年以上が経過しているので、店全体から落ち着きや柔軟性が放たれていて安堵する。店主・山崎龍介さんは、そんな穏やかな空気の中に溶け込む男前で、ギラつくことが信条な(ぼくは、それが決して嫌いではないが)若手の料理人とは一線を画する。話をすれば、修業時代の厳しかった師匠の逸話がポンポンと出てくるものの、そんな中でもこの人は、礼節と笑顔を絶やさず務め上げてきたであろう半生が、イマの立ち振る舞いから容易に想像できる。

もちろん、人となりだけではなく、料理も同じ絵姿である。厳選された器にたっぷりと盛り付けられるが、食事とは関係のない飾りは施さず、実直な意志だけがそこに灯る。味付けは言うまでもなく、ヒトの口に入ったときの、バランスや食べやすさまで入念に設計されているような気がする。食べる人のことを考え寄り添ってくる料理だ。その日のお造りは、天然のホウボウと本マグロの赤身。白身の魚を肝醤油でいただきつつ、マグロから滲み出る鉄分やほんのりとした苦みにもはっきりと気づく。紅白の視覚的なコントラストだけではなく、マグロの方があっさりと感じる対比も舌を驚かせる。

モダンさや衒いは薄くスタイルはオーソドックス。説明に誇張がなく、正直すぎる話しぶりが常に素朴な笑いを生む。緩急の付け方、箸休めを出すタイミングも絶妙でお酒が進む。

女将であり奥様の河合彩さんは、フィギュアスケートの元オリンピック代表選手で、現在もスポーツ解説者等で多方面の活躍をされているそうだ。全く畑の違う男前の料理人とのなれそめなど突っ込みたかったが、それは次回以降の楽しみにとっておこう。

■御料理 一穂
東京都渋谷区恵比寿1-23-10
LCUBE EBISU 3階
03-6338-3633

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