240602_001_SS_猫の絵について

 灼けるような炎天下、逃げ水を追いかけるように、僕は汗だくで自転車のペダルを漕いだ。アスファルトの坂を登り切ったら、目的地はすぐ目の前にあった。
 半袖のポロシャツの袖で額の汗を拭って、半開きになったシャッターを見上げる。店先の看板には、太筆の筆致で『駄菓子屋 おかもと』と書かれていたが、ここ数年は塗り直しをしておらず、風雨にさらされた塗装はところどころが禿げかけていて、端っこから錆びつきはじめていた。
 この街に古くから根ざしている住人なら、丘の上の岡本さん、と聞けば、まず真っ先にこの店を思い浮かべるという。地元に親しまれたこの店は昨冬、多くの人に惜しまれつつ閉店した。この店の店主は駄菓子屋一筋で、世話焼きな婆さんで、僕の父方の祖母だった。
 祖母が亡くなって2ヶ月が過ぎた。四十五日の忙しなさも喉元過ぎればなんとやらで、ほとぼりが冷めてきたところで、持ち主がいなくなった店の片付けが始まったのだ。とはいえ、あらかたの荷物はもう整理し終わっていて、今日は最後の仕上げだ。
 店の路地裏に自転車を止めると、勝手口が開く音がした。
「平太ぁ! ようやくきたかぁ!」
 ガハハと暑苦しく、快活に笑うのは我が父である。ねじり鉢巻に、はち切れそうな白シャツから突き出した小麦色の太い腕が印象的な筋肉質な大男である。
 日影育ちで肉の薄い自分とは対照的である。これでいて、お仕事はエンジニアなのだから、人は見かけによらない。ちなみに平太、というのは僕の名前だ。
「ごめん。夜なべして本読んでたら寝坊しちゃった」
「おいおい。夏休みになってから一層、生活習慣、崩れてないかぁ? そりゃ、夏休みの学生なんて徹夜で遊ぶのが仕事みたいなところはあるがな!」
「父さん、さすがにその認識は親としてどうなんだ」
「そんなことよりも、だ! お手伝いさんが来てるぞ! 俺よりも先に来て待ってたんだが、平太は話聞いてるか?」
「……お手伝いさん?」
 当然、事前情報はなかったから、首を傾げた。そしたら背後から声が聞こえる。
 予期していない。けれど、僕にとっては聞き馴染みのある声が。
「平太先輩、まったく、いつにも増してねぼすけさんですね?」
 思わず振り返ってみると、黒髪のボブカットがしゃらん、と夏風に揺られて顔をだした。ひらひらと振っている袖は花緑青の見慣れたジャージ。高校指定のそれの色合いは僕の1学年下を示している。僕は彼女の名前を知っている。
「……鬼塚?」
「お久しぶりですね、先輩。親しみを込めて、凛音って呼んでもいいんですよ」
「鬼塚がどうしてここに?」
「……私の提案は無視ですか。まあいいですけど」
 お手伝いさんは、顔見知りだった。それどころか、しばらく前まで同じ高校で顔を合わせていた、数少ない僕の後輩だった。彼女は僕と同じ美術部員で、名を鬼塚凛音という。
「どうしてもこうしても店を整理するって夏休み前に聞いてたから、先輩のお父様に掛け合って手伝いたいって相談してみたんですよ」
「いつの間に......!?」というか、僕は一言も伝えてないんだけど。
「ウチとしては人手が多いのはありがたいし大歓迎。これまでも何人か、店に馴染みのある人たちが来て手伝ってくれていたし、その一環と思ってくれよ」
「僕は父さんと鬼塚が繋がっていたことに驚きだよ……」
「一時期、先輩の家に入り浸ってましたから。顔を合わせることも何回かありましたし」
「それは……、」
 口籠る。確かに、彼女は僕の家に入り浸っていた。けれど、それは決して後輩との甘々な蜜月を指しているわけではない。
 他人よりもほんの少し世話焼きな彼女が、不登校になっていた僕を学校に連れ戻そうとしていた、ただそれだけのことだ。
「さて、今日でお片付け最終日って話ですからね。思い残すことがないよう、隅々まで片付けて参りますよ、先輩?」
 鬼塚が気まぐれな猫のような澄んだ目でこちらを見つめてくる。僕には彼女を追い払う選択肢はなかった。
「……わかってるよ。せっかく手伝ってもらうからにはしっかり働いてもらうからな」
「こらこら、平太も汗水垂らして働くんだよ」
 えばったような口をきいていたら、後ろから背中を叩かれた。大男め、少しは軟弱な息子への加減を覚えてくれ。じん、と痺れるような痛みに悶えつつ、父への恨み言を内心で吐き出した。

 ※ ※ ※

 祖母が亡くなったのと、絵が描けなくなったのはほぼ同時期だった。五月の暮れの話だった。僕は美術部員で、展覧会に向けての作品を作り始めたところだった。絵筆を持つ手が震えて、筆を推進させる力すら失われてしまった。
 幼い頃から、絵を描くのが好きだった。店のシャッターを閉めた祖母に絵を店に行くといつもきまって褒めてくれた。きっとこの風景が僕に絵を描かせてくれたのだと思う。
 七月も暮れが迫っていて、僕は丸々二ヶ月程度、白くてだだっ広いキャンバスから目を背けている。キャンバスだけじゃない、人生すら迷いと淀みで埋め尽くされて、学校に足を運ぶことすらままならなくなっていた。

 ※ ※ ※

 駄菓子屋の店内に僕は、幼少期よりも幾許かこぢんまりとしている印象を抱いた。いつかは見上げていた宝箱のような空間は、もう菓子の1つも置いていない空箱と化している。
 棺みたいだ、とも思う。しわしわになって、小さくなった祖母の亡骸を包み込んでいた、あの桐箱のような侘しさと同じものをこの場所は滲ませている。
 ただ、唯一にして絶対の違いがあるとするならば、それは刻まれた思い出の数だろうか。
「先輩、二階の段ボール箱は今ので一通り片付きましたっ」
 店の玄関に荷物を積み終えたところで、店舗の二階から鬼塚が降りてくる。ぎいぎい、と木造建築の階段が危なっかしい悲鳴をあげていた。
「……よし、ありがとな、鬼塚」
「えへへ、それほどでも」
 鬼塚は額の汗を首にかけていたタオルで拭った。
 埃っぽい店から物品を引き出していく単純作業は、既に終盤に差し掛かっている。
「あと、残る部屋は……、あの部屋ですかね?」
 鬼塚が指さした先は店舗一階の奥の間だ。段ボールの山がいくつか残っており、その先にある障子窓は開かれ、店舗裏の小庭が一望できる。庭は周りを家に囲まれていることもあり、昼過ぎのほんの数時間しか陽がささない。今はまだ午前中なので陰っている。壁の一面は本棚になっている。かつては本が所狭しと敷き詰められていたが、みる影もなく、伽藍堂になった棚はもの寂しさを抱かせる。
 奥の間は祖母が、そしていつかの僕が生活していた場所であった。
「この時計、まだ会ったんだ」
 奥の間に立ち入ると、段ボールの山の上に一台のからくり時計が置かれているのが目に入った。縦に長い楕円形の時計の内側、6時の真下にからくりが備え付けられている。
 秒針は微動だにしていない。
「立派な時計ですね。何か思い出でもあったり?」
 隣をするりと抜け出して、鬼塚が時計を腕に抱えて、こちらを見上げてくる。
「悪い思い出の方がね。時報付きの時計はずっと嫌いさ」
 幼い頃、僕はいつもこの存在に脅かされていた。
 父と母が共働きだった僕は、幼少期を祖母の家——すなわち、『駄菓子屋 おかもと』で過ごす日が多かった。
「時計が嫌いなら、店先に立ってればよかったんじゃ? 駄菓子屋なら、近所の子達もくるものでしょ?」
「店先に立てるようになったのはもっとずっと後の話だよ。僕は基本、人見知りしがちなんだ」
「先輩が人見知り? なんか意外です。誰に対しても人当たりがいい人に見えますけど」
「人当たりがいいことと、人見知りは共存できるよ。ただ、幼い頃は後者が色濃かっただけ。人と遊ぶより、ひとり遊びの方が好きだし、安心できる」
 ひとり遊びなら、店に立たない方が都合がいい。特段、祖母は店の手伝いを強要することはなかった。そもそも駄菓子屋は趣味の範疇とのことで、奥の間のちゃぶ台にはいわゆる『主業』の道具が丁寧にまとめられていた。表紙がボロボロになった広辞苑、原稿用紙の束、吸入式の万年筆、瓶になみなみに注がれた黒インク。
 僕は本棚を見上げる。
「だからずっと、落書き帳に絵を書き尽くしたり、祖母の蔵書を隅から順に読み尽くしたり、そんなことばかりしてた」
「絵はその頃から好きだったんですね」
「当時は今よりずっと下手だったけど。でも、一人で遊ぶなら、没頭できるものの方がよかったんだ」
 祖母が店番をしている間は一人奥の間にいることが多かった。一人だと音にも敏感になる。店先にこだまする同年代の子供達の喧騒や、時報を伝える無機質で、冷徹な時計の音色がいやでも耳に入ってくる。
「あの頃、僕は近くにある苦手なものから逃げるために、一人殻に閉じこもって、没頭できるものに打ち込んでいた。あるいは、打ち込んでいたように感じているだけで、その実は現実から目を背けていただけ、なのかもしれないけど」
 いくつかの段ボール、そしてからくり時計を胸に抱える。間近で眺めていると新鮮味がある。からくりはサーカス団をイメージしているようで、二足歩行をする像や、火の輪くぐりをするライオン、空中ブランコをするピエロなど華美な装飾たちが、僕が歩みを進めるたび、流されるようにぐらぐらと揺れていた。
「じゃあ、店先に立てるようになった契機、というのは」
「部屋に猫が入り浸るようになったんだ。君も知ってる、黒い猫」
「チョコちゃん……ですね」
 僕は頷く。
 祖母が猫を拾った。拾われた当時は生まれて間もない子猫だった。母猫と逸れたのか、あるいは死に別れたのか、理由はともかくとして、独り、空腹でよろめいているところに、餌を与えたら懐かれてしまったらしい。毎朝玄関の前で鳴いていたらしく、祖母も折れて、晴れて家族の一員になったのだという。名付けの理由は、黒い毛並みから明治のビターチョコがイメージされたから。”ビター”か”チョコ”か、祖母は響きの可愛さから、悩むことなく後者を選んだ。
 チョコは、僕が体を丸めて時計の音をやりすごそうとしていると、毎回決まって足の間から胸に潜ってきて、満足そうに喉を鳴らしていた。小さな心音が窮屈な胸の中で確かに鳴っていて、それに気を取られていると、いつの間にか時報は止んでいた。
 時計が怖くなくなったのは、ちょうどその頃だった。
「チョコは僕を外の世界に連れ出してくれた。彼女がいなかったら、僕は駄菓子屋の店に立つこともなかったし、友達だってできなかった」
「私とだって、今のような関係になることはなかったでしょうし、ね?」
「一理ある」
「百理はあってもいいと思うんですけど?」
 違いない。僕がこのお節介な後輩と出会ったのは、駄菓子屋の店先だった。当時の僕は中学生で、当時から美術部員だった。スケッチが好きで自転車で街の至る所を転々としていたのを覚えている。リュックの中に潜り込んできたチョコを連れていくこともあった。
 チョコを絵のモデルにしたこともしばしばあって、当時の町の展覧会では彼女の絵で佳作をとったことがあるくらいだ。
「まだ中学に上がる前、展覧会で見た黒猫の絵がずっと気に掛かっていて。帰り道にたまたま寄ったこの店で、チョコちゃんと、その絵を描いた本人……平太先輩と出会った」
「あの頃はいきなり『この絵を描いた人ですか!?』って詰められてびっくりしたよ」
「先輩が迂闊なんですよ。首輪の色でもしかしたら、って思って鎌をかけてみたら狼狽えちゃって。可愛かったですよ、当時の先輩?」
 時計を玄関前に停まっていた軽トラの荷台に積み終える。鬼塚が僕の脇腹を小突いた。
 当時は僕が中三で、鬼塚が中二だった。お互いに別の中学に通っていたが、駄菓子屋という共通の目的地があったおかげで今の今まで関係が続いている。
 チョコは僕に人との繋がりを与えてくれた。
 鬼塚との出会いは例外中の例外だけども。
「でも、チョコの姿はもうずっと見てない。高校にあがって初めての夏から、今まで」
 今日のような炎天下の日だった。
 彼女の最後の日を覚えている。夏休みの最中、熱帯夜だった。高校生になった僕は実家の鍵を持たされていたから、祖母の家に寄る目的は、鬼塚と待ち合わせるか、チョコの面倒を見るか、が主になっていた。
 いつものように、餌皿に盛られたねこまんまを食べ切ると、奥の間で控えていた僕のもとにやってきて、吸い込まれるように胸に抱かれた。ごろごろと喉を鳴らし、頭をしきりに僕の服にこすりつけていたのを覚えている。後になってみれば、心なしか、普段より甘えが強かったような気もする。帰宅する頃になっても、チョコは離れようとしてくれず、べたべたと、僕の後をついて回っていた。しまいには祖母に引き剥がしてもらう始末。
 その次の日、チョコは音も立てず、僕の前から姿を消した。
「あのときは鬼塚にも手伝ってもらって、街中、チョコと一緒に行った場所をくまなく探してさ」
「夜が更けるまで、必死な顔は泥まみれになって。それでも、」
「見つからなかった」
 残った段ボールを僕と鬼塚がそれぞれ抱えて軽トラの荷台に下ろす。奥の間にあった荷物はもう空っぽだ。
「二人ともお疲れ様!これで全部、だよな?」
 僕は軽トラの横で構えていた父に、「これで全部だよ」とグーサインを出す。父は応酬として、下手でこちらに小さく輝く棒状のものを投げてきた。両手で受け止める。手のひらを見やれば鍵がある。家用の鍵。「俺は荷物を積んだら直帰するからさ」
 軽トラの運転席に乗り上げた父が窓から顔を出し、グーサインを返す。
 どうやら最後に戸締りしていけよ、の意らしい。あるいは、思い出を最後に目に焼き付けておけ、という意味でもあるのだろうか。僕が頷くと、軽トラがエンジンを蒸して、タイヤがゆっくりと回っていく。徐々に僕らとの距離が離れていく。
「……帰る前にさ、やりたいことがあるんだ」やりたいこと、というか、やり残したことだけど。僕は伽藍堂になった店舗に入っていく。「今日は手伝ってくれてありがとう。鬼塚は帰っていいよ」
「何をやり残したんですか?」
 鬼塚は僕のうしろについてきた。僕は奥の間のその先、建物の中庭を見つめながら。
「チョコとのお別れかな」

 ※ ※ ※

 チョコがいなくなってから半年の間、祖母はずっと、玄関前にねこまんまを盛り付けた餌皿を置いていた。毎朝毎晩用意しては、腐る前に捨てていた。
 けれど、それも長くは続かなかった。
 今冬、祖母が病に倒れ、入院することになったからだ。
 誰もいなくなった駄菓子屋はシャッターが閉じられた。僕は祖母の代わりに、閉店を知らせる張り紙を貼りに来たのだった。
「ちょうど前日が大雪でさ、店に寄ったら猫の足跡があって。逸る気持ちに突き動かされて、僕は跡を辿ったんだ」
 僕と鬼塚は中庭の縁側に隣り合って座っていた。目線の先には隣家とを隔てるコンクリートの塀が聳え立っている。
「チョコちゃんはいたんですか?」
「わからない」
「……いなかった、ではなくて?」
「足跡を辿って塀を見上げたとき、黒猫の影が見えたような気がしたから」
 足元には持ち主のいなくなった、空っぽの餌皿がある。僕は手持ちのリュックからスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「だから、絵を描くんですね」
「そうだ。その先を描くために僕は描くよ」
 あの塀を飛び越えた先、君が向かう場所に何があるのだろうと、思いを馳せる。



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