見出し画像

フラットであること

他人からとても傷つく態度をとられた朝。
なぜあの人は他人である私にそういう態度をとるのか、他人だからどうでも良くてそうなるのか、それとも家族や身近な人にもそうなのか、一人悶々とする。
そのうち、なんとなく喉の奥が詰まって、自分が泣きそうになっていることに驚いた。
いい年をして、そんなにナイーブでどうする? 泣きそうなのにちょっとおかしくなり、笑いそうにもなる。

誰かに聞いてほしいという思いがよぎるものの、こんなとき、「ねぇねぇ、こんな嫌な人がいたよ」と、簡単に話せない。誰かの悪口を言うみたいで嫌だというきれい事ではない。
人に話すとき、心の片隅で、なぐさめの言葉や共感されることを求めてしまう。私が逆の立場なら、愚痴を聞いたら反射的になぐさめの言葉を探してしまう。「そんなのよくある話だよね」で済まされたら落胆するだろう。

人との会話って、反射神経。反射的に気の利いたことを言ったり、突っ込んだり、驚いてみせたり、なぐさめを言葉を探したり、相手が期待しているであろうリアクションをテンポ良く返せるよう、身構えてしまうことすらある。

そんなことをつらつら思いながら、花の世話をする。私の気持ちに関係なく、とてもご機嫌な花たち。この子たちは人を喜ばせよう、場を和ませようなんて考えていない。天気が良くて、手入れがいき届いていれば、大抵機嫌よく咲いてくれる。なぐさめようなんて思わなくても、明るく光に向かう表情で、こちらに笑顔を向ける。

なんてフラットなんだろう。
人はなかなかそうはいられず、だからこその深淵な心模様が面白さでもあり、そこから生まれるものがたくさんある。
そんなめんどくさい人間を受け入れてくれる植物のおおらかさに触れ、感謝した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?