家出先の三叉路

 決まりの家出先がある。家から10メートルほどの三叉路だ。鋭角の空き地に電柱が立ち、見上げると古びたカバーの蛍光灯が付いている。ほの暗い電球色の外灯だ。
 電柱の元へ行くと、目の前に田んぼが広がり、奥には山が悠々とこちらを見てそびえたっている。空は広い。自分の背には、斜面の雑木林がうっそうと茂っており、隣家とも50メートルぐらい離れている。田舎家に4世代で暮らして15年以上が過ぎたが、私にとっては、唯一ひとりになれる三叉路であった。
 よく、デジタルカメラを持って、星空を撮ったりしていた。三叉路で撮った小雪が舞う写真。見ていると、さまざまな思い出がよみがえってくる。電柱の元から見上げ、外灯にレンズを向けた1枚で、電球色のほの暗い灯りによって照らしだされた雪が淡く写りこんでいる。どことなく、すべてを包み込んでくれそうな温かさを感じる一枚。写真を撮ることが好きだが、思い返すと、カメラを持たずによくここへ出向いていた。
 夜になると、歩く人はおろか、車通りもほとんどない三叉路は、電柱の影に立てば、さらに死角となり、体の輪郭まで消えるよう。アスファルトの道に腰を下ろし、ゆっくりと空を眺めることができた。朝から晩まで、育児や家事、仕事と時間に追われていた私にとって、1日の終わりにひと息つく大切な場所であり、夜中に家の裏口からこっそりと外へ出て向かう、家出先でもあった。
 満天の星が見たいときは、外灯が隠れる電柱の影に立つと辺りがより暗くなり、見える星の数が増える。雪が舞う夜は、反対に外灯を見つめ、照らされる雪を眺めた。静かに流れる時間は、自分の心とも向き合えた。
 子どもを強く叱ったあと、気分を落ち着かせるときもここであったし、実親の介護のことで誰にも言えず無理をしすぎたときも、遠くにいる叔母に電話をかけ、泣きながら悩みを打ち明けたのもここであった。思うように文が書けず、空を見上げながら虚無感を受け止めた日もある。点滅しながら夜空を進む飛行機を目で追い、息をついたことはもう幾度となく。初めての大仕事を前に押しつぶされそうな緊張を押しやって、「よし! やってやるぞ」と奮起したのも思い返せば三叉路であった。
 初夏は、目の前の田んぼからカエルの鳴き声が絶え間なく聞こえ、梅雨には川を外れたホタルが迷い飛ぶ。秋に鈴虫の声がすると、雪つもる冬はあっという間に訪れた。こうして何度も季節を繰り返して娘たちは成人し、家を離れた。
 空き部屋を自分の部屋にしたおかげか、日々に余裕がうまれたからか、三叉路に家出する夜はほとんどなくなったが、つい先日、外灯が煌々と白く光る小さなLEDに付け替わった。電柱の影は以前よりもだいぶ明るい。自分の輪郭さえも消してくれるあのほの暗さは、共に沈んでくれ、寄り添ってくれていたんだなと気がついた。


三叉路の外灯はもう存在しない。

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