82 退職からスカトロまでw

仕事を続けるかどうかは
その場をどうとらえるかであり
大きく二つに分かれる
① 「置かれた場所で咲きなさい」系と②「俺はまだ本気を出してないだけ」系
今ある仕事とささやかな幸せを受け入れるわきまえた態度があれば
①でおはようからおやすみまで、ゆりかごから墓場まで
おだやかに過ごすことができるだろう
しかし、どうも、どうにもいけない
どうも我慢ができなくなってきた
① は所詮、ライフハックであり、人生を助けてくれるかもしれないが、ごまかしのような気がしてきた



なぜだろうか
残業が100時間あるわけもなく、
職場の同僚とも仲はよい
ボスと中ボスとの関係はよくはないが・・・
職務?これはやめておこう
有意義ではないが、イリーガルなものでもない
ここを望むのはやめよう
どこだろうと50歩100歩20歩60歩だ

その中身がなんだろうと
少なくとも一日の3分の一は他人の思惑でうごかないといけない
裁量権が少ないことが問題だ

メンタルヘルスマネジメントから言えば
仕事にたいする満足度は給与や拘束時間とともに
仕事に関する裁量権の有無と相関する、らしい
決められた仕事を毎日やるようなルーチンワークでもないが
他人の思惑で動くことが、どうにも許せなくなってきた
他人とは個人ではなく、組織や制度、経済動向、モラル、規範もふくめた構造や枠の総称だ。

では家庭ではどうか、良き家族、よき家庭、良き住まい(とまではいかないが)
不満はないが、自分で決められることは僅かだ
メシはだされたものを食べるだけ、裁量権はない
お金もすべて渡している。
わずかに残された自由は排泄ぐらいか
排泄のみが自分が自由な個人であることを保証する

故事の「鶏頭となるも牛後となるなかれ」は
「でかい組織で汲々とするより小さな組織でもアタマ張った方がいいよ」
という意味ではなく、鶏頭(自らの頭で思考せよ)牛後(排泄のみになるな)とうことに違いない、牛後とはウンコのことだなw

ということで大した不満はなくとも、小さな不満をないがしろにせず
あえてフォーカスする方が事態が動きそうだ

これは情けないが、いまだに懲りていない、タンスのしたの畳の色のような自尊心の問題だ。

いやまてよ、排泄で自由なのは、いつ排泄するか?とその量ぐらいだ(全部出すんですけどね)
場所は、と言えば限定されている、トイレでやるしかない
場の自由からは逃れられない。
これは相当な束縛だ。

古から自由であった排泄は、近代の獲得とともに人間は手放してしまった。

よくフランス革命前夜、18世紀ぐらいまではパリよりも日本の江戸の方が清潔でパリジャン、パリジェンヌたちはそこいらへんでウンコしていた。という話を日本スゴイ話の中でよく聞くけど、なるほどこれはヨーロッパ人たちの自由への執着がなせるワザに違いない。


そうか、スカトロは完璧な自由への希求であり
大いなる自由賛歌であり、神の持つ自由に対しての寝取りの高揚感ということか
やんないけどね

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